新進党の挫折

橋本首相は96年9月に衆議院を解散し、10月20日小選挙区比例代表並立制の下での最初の総選挙を行った。所得税減税の財源を確保するために消費税を3%から5%に引上げる税制改革を訴えて、239議席を獲得し第一党の座を確保した。新進党は156、民主党は52にとどまった。社民党とさきがけは分裂によって大幅に議席を減らし閣外協力に転じ、連立与党の力関係は自民党優位に変化した。

95年12月新進党の党首となった小沢一郎は、選挙直後開票中にも係わらず深夜になるまで姿を見せず、党首としてあるまじき態度をとり、党内には小沢に対する反発が強まった。96年12月羽田孜元首相は、奥田敬和岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党し太陽党を結成した。

97年小沢は自民党亀井静香らと提携し、保保連合構想に舵を切ったため二大政党制を志向する立場から反対する勢力が顕在化。さらに同年6月には細川護熙元首相が離党。12月には公明党が次期参院選を独自で闘う方針を決定。31日新進党は解党に至る。

中央集権的な行財政システムに小選挙区制が結びついた時、代議士は地元と中央を繋ぐ唯一のパイプとなる。大都市圏以外の地域は、野党政治家を支える基盤がなかった。新進党にとって公明党の支持基盤である創価学会がその基盤をなす筈であったのである。

当時の新進党政治資金収支報告書によると、96年8月幹事長米沢隆に対し「組織対策費」として4億1,092万円が党から支出されている。次の幹事長西岡武夫にも96年97年に総額29億8,904万円が支出された。参院幹事長永野茂門にも総額1億800万円を「組織対策費」として支出している。しかし米沢や西岡本人は現金を受取っておらずどう使われたかも知らない。虚偽記載と言われても否定できないであろう。

「組織対策費」とは政治資金規正法上の「組織活動費」の一つで、支出を受けた議員側の領収書があれば、それ以上の使途の説明は不要とされる。政治資金のため議員個人の所得ではないので、議員側には税務申告する必要もないのである。

関西大学教授森岡孝二は「小沢さんは昔の自民党的なやり方を最も継承している人ですね。本来、政治資金規正法の趣旨からすれば、お金の入りと出はできる限りオープンにすべきなのに一議員に出した巨額の組織対策費の使途が不明で、官房機密費と同じくブラックボックスになっています。秘密主義で不透明、政治資金のあり方としては最悪です」と語る。


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