橋本行革

橋本政権は行政改革に着手し96年11月行政改革会議を立ち上げた。その目的の一つは官僚支配から脱却し、政治主導で政策を実現していくことにあった。しかし、その出発点から間違った。そのビジョン策定の場として官僚が便利に使ってきた「審議会方式」を選択してしまい、一部の有識者による密室の議論が進められ、国会議員が蚊帳の外におかれ、その発言まで封じられた。

97年12月行革会議は最終報告を出し、法案審議を経て01年1月から施行された。1府21省庁が1府12省庁に削減された。防衛庁防衛省となり、大蔵省は財務省、文部省は文部科学省など省名の変更もあった。

しかし結果は単に省庁を巨大化させただけであった。大臣の数はスリム化されたが、大臣を補佐する政治任用の人数を増やした。従来の政務次官に代わって、副大臣政務官が任命されることになったが、政治主導とは言い難い。

97年第一勧業銀行、野村証券暴力団と関わっていたことが明るみに出た。銀行や証券会社が総会屋や暴力団の脅しに屈して、融資や謝礼名目で様々な利益供与を行ってきたことは知る人ぞ知る事実だった。報道によると大蔵省の検査を誤魔化すための追加融資もあったという。追加融資をして金利を受取ったことにして不良債権リストに記載しないのである。

一勧が検査をすり抜けてきたのは、MOF担の接待漬けになった大蔵省銀行局の担当者が、いつ検査に行くのかだけでなく、どんな検査をするのかまで明らかにしていたからと報じられた。この時有名になったのが「ノーパンしゃぶしゃぶ」である。

過剰接待など収賄容疑で逮捕されたのはノンキャリアの検査室長と現場の検査官だけであり、自殺者まで出た。次官や銀行局担当審議官、証券局長など幹部は辞任に追い込まれたものの、刑事責任を追及されることはなかった。

大蔵省の強大すぎる権限が問題となり、金融の監督権限を大蔵省から別組織に移すことが検討され議論の末に、98年総理府の外局として「金融監督庁」ができ大蔵省の銀行局、証券局は解体された。

「金融検査は専門家でなくては」という主張が通って、金融監督庁を作るに際してその職員の9割が大蔵省からの異動となった。財金分離は全く功を奏さず、各々の焼け太りに終ったのである。


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