自自公連立

97年4月消費税が5%に、医療費の本人負担が2割にそれぞれ引上げられた。当時はこの緊縮財政によって、これほど景気を悪化させることを十分認識していなかった。11月には三洋証券・北海道拓殖銀行山一證券が破綻を発表し大きな衝撃を与えた。

橋本政権は大蔵官僚のシナリオに沿ったためにデフレを招き、98年7月の参議院選挙の結果に大きな影響を及ぼした。自民党は改選61に対して44議席しか獲得できず、民主党無党派層の票の多くを吸収して27議席を獲得した。参議院自民党過半数割れというネジレ現象が生まれた。橋本は惨敗の責任をとって退陣。

自民党総裁選では、橋本派から小渕恵三が立候補し、橋本派から離れた梶山静六森派代表の小泉純一郎と総裁の座を争った。その結果竹下登野中広務らが推す小渕が当選し、7月30日衆議院で首相に指名された。この時参議院では、野党の結束によって菅直人民主党代表が指名されたが、憲法の規定により小渕が首相に就任した。

98年10月防衛庁における調達の不正の責任を追及するために野党が提出した額賀福志郎防衛庁長官に対する問責決議が、参院で可決され額賀は長官辞任を余儀なくされた。金融関連法案も自民党は野党案を丸呑みし、当面の金融不安を乗り切らざるを得なかった。このように不安定な小渕政権は安定多数を確保するために野党との提携を模索するようになった。

新進党を解党した小沢一郎は98年1月自由党を結成し党首に就任した。衆院議員42名、参院議員12名が参加した。政権交代を目指す民主党は自由、公明両党との協力関係を強化する必要があった。しかし菅民主党代表の「金融危機を政局にしない」という発言に自由党が反発し、公明党も政策実現のために与党志向を強めていった。

98年10月小沢は官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始した。野中の自著「私は闘う」で小沢を悪魔と呼び罵倒し、「小沢の保保連合構想を身体を張ってでも阻止する」と考えていたその人が政策ではなく政局で動いたのである。99年1月連立合意が成立し、自由党幹事長の野田毅自治大臣として入閣した。小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。さらに99年10月には公明党とも連立合意ができ、自自公政権が発足した。

自由党公明党とは連立政権参加の動機は異なった。自由党小沢は、政党再編の手段として自民党が受入れ難い、官僚ポスト削減や集団的自衛権行使を認めるという憲法上の争点を敢えて突き付け、政局の混乱を狙った。公明党は、自民党が政権の主軸であることを前提に、地域振興券に代表される利益配分政策を実現するために連立参加という道を選んだのである。


レース結果共鳴チェック