「クーデターのようなものだ」

99年11月自由党党首小沢一郎は連立合意で約束した重要政策の実現を、自民党公明党に迫った。自民党公明党を取り込んでしまえば自由党に用はないとして協議に応じなかった。小沢は小渕首相と神崎武法公明党代表に党首会談を要請。00年4月1日18時に行われることになった。

小沢は、自民党自由党もいったん解党して、新しい理念と政策をもとに結集して日本を再生させなくてはいけないと主張し、小渕は今国会で合意した政策を実行することは不可能と答えている。会談直後、野中広務幹事長代理は一枚のペーパーを、小渕に記者団に発表するよう渡した。そこには小沢を切り捨てる意味のことが書いてあった。この様子をTVで見ていた専門医は小渕の表情に脳梗塞の症状が現れていたと語っている。深夜、小渕は順天堂医院に緊急入院する。

青木幹雄官房長官は、村上正邦参議院議員会長のアドバイスで、森喜朗幹事長、亀井静香政調会長、野中に連絡して2日13時に赤坂プリンスホテル550号室に集まることになった。党三役の中で池田行彦総務会長だけが呼ばれていない。5人の頭の中には、小渕と総裁選を争った加藤紘一元幹事長の動きを封じる必要があったのである。

青木が臨時首相代理となることが固まり、17時頃小渕首相再起不能との情報が入り、森を後継とすることを固めてしまった。青木と野中は別室で創価学会秋谷栄之助会長と八尋頼雄副会長に電話で説明して了承をとった。

その日の19時青木は順天堂医院で小渕と会い、23時に記者会見して「首相が過労のため緊急入院した」と発表した。翌3日午前青木は「病名は脳梗塞」「有珠山の噴火対策もあり、小渕首相から官房長官が首相の臨時代理の任にあたるよう『万事頼む』と指示された」と述べた。同日午後、自由党は連立離脱し、5日森内閣が発足する。森政権に正当性が無いことに「クーデターのようなものだ」と非難したのは石原慎太郎東京都知事である。

小渕は意識を回復することなく5月14日死去した。順天堂医院の医師団が記者会見した内容は「小渕総理は入院した時点で昏睡状態であり、4月2日19時青木官房長官が会って『万事頼む』と言われたということは医学的に不可能である」というものであった。

森には断るという選択肢もあった。「民意を受けずに総理に就任することはできない」と言うこともできた筈だ。しかし彼はそれをしなかった。日本の憲政史上いや世界の民主主義国家にかってない奇観となった。森政権以降、日本政治の劣化、総理大臣の劣化が加速する。


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