強欲な小沢一郎

00年4月3日午後自由党両院議員総会が開かれ連立離脱が決まった。小沢一郎憎しに燃える、自民党幹事長代理・野中広務公明党東京都議・藤井富雄が協力して、自由党衆院議員に創価学会選挙協力を条件に離党を画策したのである。その結果、自由党議員のうち中西啓介二階俊博野田毅ら26名が離党し、保守党を結成、扇千景参院議員が党首に就任し森自公保政権に参加。小沢自由党は22名に半減するが03年9月民主党と合併する。

保守党を結成した扇党首や野田幹事長は、政党助成金などの分配を自由党に要求した。自由党副幹事長平野貞夫は「分党解党とは違う。自民公明の画策で離党した者に配分することは、国民主権の原理に反する」として拒否。保守党議員は離党扱いとなり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることになった。自民・公明・民主三党は「小沢党首は強欲だ」と批判キャンペーンを展開した。小沢の強欲はこれにとどまらない。

使途を明確にしない組織対策費なる機密費は、自由党政治資金収支報告書によると野田幹事長には98年総額10億1348万円が、次の幹事長・藤井裕久に対し99年4月から03年9月までに計12回、総額31億3623万円が組織対策費としてそれぞれ支出されている。野田も藤井もこの金を見たことも触ったこともなく名前を利用されただけで、新進党時代と同様、小沢個人の勢力拡大のために使われた金なのである。

そもそもは、小沢が主導して94年に成立させた政治資金規正法改正で、政治団体ではなく政治家個人に入ったカネの使途を報告する保有金制度が撤廃されたことがこの手法を可能にしたのである。制度成立に自ら関わりその法の穴を見抜き、それを塞ぐどころか最大限に利用して我田引水するのが小沢の真骨頂である。

09年12月小沢の公設第一秘書・大久保隆規の初公判検察側冒頭陳述によると、00年から06年まで鹿島建設清水建設大成建設大林組鉄建建設胆沢ダムの受注業者も含むゼネコン各社から総額6億円近い献金を小沢は受けていた。しかも下請け業者に分散させるなどして献金を受けており、ゼネコン各社の名前は政治資金収支報告書には出てこず、ここでも国民の目から覆い隠されていたのである。

小沢はゼネコン献金のほかに選挙支援を要求した。93年7月の衆院選で小沢は旧岩手一区から工藤堅太郎を擁立。ゼネコンは鹿島の盛岡営業所長を統括責任者にゼネコン60社からなる裏選対を作った。裏選対には各ゼネコンの東北支店や盛岡営業所から社員らが動員された。車も経費も各社の自前だ。各ゼネコンは下請け業者らも動員した。結果、工藤は73,000票を集めて当選した。

小沢は同選挙に旧岩手二区から立候補し、過去最高の14万票余を獲得してトップ当選を果している。だが小沢自身は一度として地元に入ることはなかった。


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