史上最低の内閣支持率

密室の謀議による首相の決定は、国民を無視した非民主的なものであるという批判が起った。森政権は発足当初から強い逆風にあえいでいた。加えて「日本の国はまさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」「無党派層の人には投票所に行かずに寝ていてほしい」等、森は数々の失言で世論の顰蹙を買い、首相としての不適格性を露呈した。

正当性を求めるべく森は衆議院を解散し、00年6月25日新制度下での2回目の総選挙が行われた。森の不人気もあって、自民党議席を大きく減らし単独過半数を獲得できなかったが、公明党などとの連立で政権を維持した。小沢自由党は22議席を獲得したが、保守党は7議席の大敗となった。

00年7月沖縄でサミット(G8)が開催された。参加国の殆どの首脳がまず東京に集りそれから沖縄に向ったが、米国大統領クリントンだけは直接沖縄に向った。森を擁護するつもりはサラサラないが、彼がクリントンに「ハウ・アー・ユー」を「フー・アー・ユー」と間違え「アイム・ヒラリーズ・ハズバンド」に対し森は即座に「ミー・ツー」と答えたという笑うに笑えない噂は捏造であったというのが真相のようである。

00年11月20日野党は、森内閣不信任決議案を提出し、加藤紘一グループが同調するかどうかという「加藤の乱」が起きた。山崎拓もこれに同調する構えを示した。これで政局は一気に緊迫し自民党分裂の期待も高まった。しかし野中広務前幹事長の加藤・山崎両派の切崩しや、YKKの同志小泉純一郎の反対で、両派は採決に欠席するにとどまったが、池田勇人以来の伝統を持つ宏池会は分裂することになる。

森政権は小渕政権の継続を表明したが、実態は緊縮財政だった。ゼロ金利に踏切った日銀も00年8月金利の誘導目標を引上げた結果、2万円台を維持していた株価は年末には13,000円台まで戻ってしまう。日本の政策当局はあと少しの辛抱ができない。日銀は金利を上げたがり、大蔵省は財政健全化を急ぎすぎるのである。

01年2月森首相の総理としての資質は多くの国民から烙印を押され、内閣支持率が9%と史上最低を記録する。2月10日えひめ丸海難事故の当日ゴルフをしていたことがわかり、マスコミの批判に耐えられず辞任に追い込まれた。

辞任後、森はキングメーカー面して清和会(町村派)の事実上のオーナーとして居座わり、日本の正しい保守が絶滅に追込まれた。二代後の安倍晋三がいくら「美しい国」と言っても、背後霊のようにこの男がいる限り、国民がついてくるわけもない。


レース結果共鳴チェック