郵政改革----①

慶応大学在学中の小泉純一郎は、67年4月こともあろうに婦女暴行事件を引起した。即、都立松沢病院に入院。精神分裂病と診断された。父親でもあり元防衛庁長官の純也は、被害女性に金銭解決を図り、小泉を同年7月ロンドン大学に遊学させて事件と病名を隠蔽した。このスキャンダルにマスコミは沈黙した。背後に米国の圧力があった。この時から小泉は米国に弱みを握られ、同時に大きな借りを作ってしまったのである。

69年8月10日純也は65歳で急死する。同年12月小泉は亡父の跡を継ぎ、弔い選挙となった総選挙に自民党公認で神奈川2区(中選挙区・定数4)から立候補し、10万3千票余を獲得するものの第4位の田川誠一とは僅か4千票差で落選した。当時の選挙区の郵便局長たちが小泉の暗部を知り、田川に寝返ったからである。

小泉の祖父又一郎は衆議院副議長や逓信大臣を歴任し、とりわけ横須賀地域で特定郵便局のネットワークを作り上げた功労者であり、政治一家小泉家の堅固な票田とした人物である。小泉自身の身から出た錆であったが小泉はこの落選を逆恨みし、郵政事業民営化にこだわりを持つようになった。

小泉は72年12月の総選挙で、田川派であった県会議員竹内清を選対本部長に迎え、12万2千票を得て第4位当選を果し、師匠の福田赳夫の影響で旧大蔵省の族議員として活躍することになる。旧大蔵省は銀行行政を所管し、郵政事業の貯金や簡易保険の資金が、銀行の業務と競合するところがあり、その調整が課題であった。

つまり、初出馬で落選した恨みを晴らし、スポンサーの銀行のためにも郵政民営化を政治テーマにしたという事情があった。小泉は首相になるまで、構造改革といえば「郵政民営化だ」という程度の見識しか持っていなかったのである。

小泉は01年4月に行われる自民党総裁選に出馬する直前、市場原理主義者・竹中平蔵に教わって、俄か勉強することになる。そこで米国から「年次改革要望書」を突き付けられていることを知り、ブッシュ大統領に追随することで政権を維持していく戦略をとることになった。結果、小泉政権は5年5ヵ月に及ぶ長期政権となった。


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