福田内閣誕生

ポスト安倍」の最有力候補として名前があがったのは、安倍が幹事長に抜擢した麻生太郎だった。安倍首相の辞意が報じられた07年9月12日の夜には、テレビはこぞって「後継首相には麻生氏有力」のニュースを流した。新聞各紙も翌日の朝刊で「麻生氏有力」と書き立てた。ところが13日の夕方から流れが変わる。小泉内閣官房長官を務めた福田康夫が総裁選出馬の意向を固めたからである。

これを受けて自民党内9派閥のうち、麻生派を除く8派閥が次々と福田支持を打ち出していく。麻生は三日天下どころか一日天下に終った。9月23日に行われた自民党総裁選では、麻生が投票総数528票のうち197票を獲得して健闘するが、福田が330票を獲得して勝利する。

この急変の理由には、小泉内閣構造改革路線を引継いだ安倍内閣の1年で、格差社会が鮮明になってしまった。改革を断行したにもかかわらず、日本経済は低迷状態から抜け出せないままだった。それには小泉や安倍のように国民的人気だけに頼った政治ではダメだという反省があった。そこで手堅く慎重居士の福田を「ポスト安倍」に推したというわけであるが、事実はもっと生臭い!

実は「新聞界のドン」渡邉恒雄読売新聞グループ本社会長・主筆と「民放界のドン」氏家齊一郎日本テレビ放送網取締役会議長の二人が福田内閣を誕生させたのである。9月13日の午後、この二人が日本テレビ本社の議長専用応接室に顔を揃え、そこに元首相森喜朗、元副総裁山崎拓自民党参院議員会長青木幹雄が駆けつけてくる。この5者会談で「ポスト安倍」は福田でいくことが決められたのである。

5者会談から清和会事務所に戻った森は、福田と町村信孝を呼出し「今回は福田さんでいきたい、町村君も了解してもらいたい」派閥の事実上のオーナーである森にこうまで断定的な言い方をされては、会長である町村も逆らえない。町村は直ちに自民党担当の平河クラブ所属記者を集め、「わが派は福田さんでいく」と宣言した。

当選13回の森は当選6回の福田を「福田君」ではなく「福田さん」と呼ぶ。それは福田が、元首相であり清和会の創設者でもある福田赳夫の長男だからである。同じ清和会の小泉も、首相だったときでさえ官房長官の福田を「福田さん」と呼んだ。血がものをいう政界の慣習である。

「ポスト小泉」のとき、福田が早々に出馬をとりやめたのは、清和会内部での調整がつかなかったからで、安倍も福田も同派所属であり、その二人が総裁選で戦うことになれば、清和会が分裂しかねない状況だった。日本テレビ議長専用応接室に集まった5人は当時も福田支持だったが、歯ぎしりする思いで福田擁立の実現を見送るという過去があった。

しかし、米国をはじめG8メンバーのどの国でも、その国の最大発行部数を誇る新聞社のトップが政権づくりに直接口を挟むケースはない。日本は世界でも稀有な国なのである。


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