渡邉恒雄

旧制東京高校を卒業した渡邉恒雄は、45年4月東京帝国大学文学部哲学科にすすむ。入学早々に共産党に入党。そして1年遅れて経済学部に入学してきた氏家齊一郎を渡邉がオルグする。氏家も直ちに入党した。その後、路線闘争から共産党を除名され、東京大学大学院にすすむが中退して、50年11月読売新聞社に入社する。

当初は「読売ウイークリー」に配属されるが、52年正力松太郎社長の眼鏡にかなって政治部へ異動となり、55年12月当時の自民党大野伴睦を担当する番記者となった。渡邉が頭角を現してくるのは、65年の日韓基本条約調印の際に、大野の意向にしたがって密使役を務めたことが、彼の名を政界に知らしめることになった。

日韓国交正常化に向け、自民党の有力者たちは水面下で韓国側にアプローチしようとしていたが、成功できないでいた。そんななか渡邉は朴正熙政権下のKCIA初代部長だった金鍾泌元首相と接触することに成功し、大野・朴会談を実現させ「読売に渡邉あり」と言われるようになっていく。

56年12月の自民党総裁選をきっかけに中曽根康弘と知りあった渡邉は、後に「最後の政界フィクサー」と呼ばれる福本邦雄も入れて読書会などをやりながら関係を深めていく。中曽根は59年6月第二次岸内閣で科学技術庁長官に初入閣するが、この時岸と中曽根のあいだをとりもったのは渡邉だったといわれる。

82年11月鈴木善幸が政権を事実上放り出して総裁選となり、中曽根、河本敏夫安倍晋太郎中川一郎の4人が手を挙げた。この時渡邉は闇将軍こと田中角栄元首相に、中曽根支持にまわるよう働きかけ成功させたのである。結果は河本優勢の予測に反して、中曽根が圧勝した。中曽根は返しても返しきれないほどの恩義を渡邉から受けたのである。渡邉は91年5月には読売新聞社代表取締役社長・主筆に就任する。

96年渡邉はマスコミ界の代表として橋本内閣の行政改革会議の民間側委員となる。橋本行革は省庁再編によって大蔵省の財政と金融部門を分離する案を打ち出した。この分離案に渡邉が噛みついた。「渡邉私案」なる財・金分離反対のレジュメをつくり、読売新聞紙上で反対キャンペーンを展開した。不思議なのは、民間側代表のはずの渡邉が、権力の権化というべき大蔵省を擁護したことである。

98年7月に発足した小渕政権に、99年1月小沢一郎自由党が、同年10月公明党が加わった。00年4月に小渕と会談した小沢は、いったん自民党自由党を解党して合流させ、新しい保守政党をつくって公明党を政権から外す構想をもちかける。これを小渕が拒否したため小沢は政権からの離脱を決める。この公明党外しの構想を小沢に吹き込んだのは、渡邉ではないかと言われている。

その後の渡邉の政治介入は80歳を過ぎてもおさまらず、福田内閣を誕生させたのである。


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