大連立構想

9派閥の中で麻生派を除く8派の談合により07年9月25日、福田自公連立政権ができる。福田は町村信孝前外相を官房長官に起用し、外相の後任に高村正彦前防衛相を横滑りさせ、防衛相に石破茂を充てた。党の体制は幹事長に伊吹文明政調会長谷垣禎一、総務会長に二階俊博選挙対策委員長古賀誠を起用し、派閥均衡政治の再現となった。時代錯誤政権との批判がでる。

福田政権が発足して一ヵ月過ぎた頃、自民党民主党との大連立構想が浮上し大騒ぎとなる。参院選直後の8月、読売新聞が社説で提唱したのが始まりであった。読売新聞は過去何回か自民党が弱体化して政権担当に不安が生じると、大連立構想を社論として提示して世論を誘導していた。

大連立構想民主党代表小沢一郎渡邉恒雄にもちかけ、福田への働きかけを頼んだというのが真相である。しかし小沢は「渡邉から会談の話がもちこまれた時期は8月末か9月初め」と朝日新聞のインタビューに答えている。狡猾な小沢はあくまで受け身だったことにしたいのである。

小沢が大連立をもちかけたのは、民主党による政権奪取は難しいと見ていたからで、参院選で大勝したとはいえ当時の民主党は、300小選挙区に半分も候補者を擁立できていない状態だった。その地盤固めをしていくには早期の解散・総選挙を避けるしかない。参院第一党の立場を利用し有利なかたちで自民党との大連立を組むほうがメリットがあると考えたのである。

福田と小沢の党首会談は10月30日と11月2日の2回行われたことになっている。しかしこの2回の会談の間に表に出てきていない党首会談が行われていた。場所は世田谷野沢の福田の私邸で元首相・森喜朗の同席で行われている。この席で閣僚人選・配分といった話まで進んだという。

福田との会談を終えて民主党本部に戻った小沢は、11月2日の夜の民主党役員会で「首相から連立の提案があったので持ち帰った」と大連立を提案した。自ら仕掛けた大連立を福田からもちかけられたように話したのは、大連立が否定されたときに自分への批判を和らげるためだった。一部役員から「事前に知らせて貰えば」と残念がる話もあったが、大勢は大反対で撤回せざるを得なくなる。小沢は福田に電話で大連立の白紙撤回を申し入れた。

11月3日午後の記者会見で、小沢は連立を巡る混乱の責任をとって党代表を辞任する意向を表明。菅直人ら幹部による慰留工作が活発化し、参院議長江田五月からも説得され「辞めるのやめた」となった。辞意を表明しないまま代表にとどまっていたら党内不満は大きくなるばかりであったろう。慰留されてとどまったからこそ、ダメージを最小限にして小沢は代表を続けていられるのである。


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