最低でも県外----①

市街地の中心にある普天間基地は、小泉政権下の06年5月日米間で名護市辺野古地区にV字型滑走路を建設し、そこに移設することで合意していた。沖縄県は政府の建設予定地より、さらに沖合への移設を求めて対立していたが、名護市長は移設自体については容認していた。

民主党は総選挙前から県外移設を求める発言を行った。鳩山由紀夫代表は09年7月19日沖縄市で行った講演で、「日米の政府がまとめたものは何も変えてはならないと県民に押付けられるとしたら、違うのではないか。県外移設に皆様が気持ちを一つにするなら、その方向へ積極的に行動を起こさねばならない」と語った。

米国は早い段階から、この鳩山の「最低でも県外移設」に反対を表明した。最も強く日本に圧力をかけたのはゲーツ国防長官だった。彼は10月20日に来日し、11月に予定されているオバマ大統領の訪日までに問題を解決することを強力に迫った。11月13日日米首脳会談で日米同盟の深化を目指すことを合意しつつ、オバマ普天間基地移設問題の早期解決を鳩山に促した。

この時鳩山は「トラスト・ミー」という表現を用いて、自らのリーダーシップを約束した。まさに沖縄県民と米国政府の両方にいい顔をする、鳩山の八方美人的な姿が浮き彫りになった瞬間である。

鳩山は関係閣僚間で年内に辺野古案への回帰を止むなしとする方向へ傾いた。12月4日には辺野古案回帰を表明する記者会見まで予定された。しかし、12月14日の関係閣僚会議、15日の与党党首会議で、普天間問題の決着を先送りし、来年5月までに結論を出すことを決定する。社民党党首福島瑞穂の県外移設から辺野古案へ戻した場合には、連立政権を離脱すると示唆していたための先送りであった。

年内決着を先送りにする方針を伝えた岡田克也外相と北澤俊美防衛相を前に、ルース駐日大使は顔を真っ赤にして大声を張りあげ、怒りを露わにしたという。ヒラリー・クリントン国務長官藤崎一郎駐米大使を呼出して不満を示し、辺野古案へ回帰する必要性を伝えた。この「先送り」は米国政府の鳩山政権に対する不信感を決定づけた。

この後、外務省・防衛省は移設検討の第一線から退き、官房長官平野博文を中心とする検討チームが主導する体制となった。鳩山のアマチュアへの委任は、外交・安全保障の重要問題を著しく無責任な体制下に置くことになり、結果として10年初頭から5月にかけて普天間問題で迷走し、政権基盤を弱体化させていくことになった。

09年12月、鳩山の母・安子が東京地検に提出していた上申書から、04年〜08年まで毎月1,500万円が鳩山に渡り、しかも贈与税が支払われていないことが判明した。鳩山は秘書がやったことと白を切り通すが、組閣直後の内閣支持率75%が12月には59%、翌10年5月には19%と急速に下落する。


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