平成の明智光秀

10年9月石原伸晃は、自民党の役員人事で幹事長に就任した。「谷垣総裁が進めた政策や路線を実現することが使命だ」と決意を表明し、11年の党役員人事でも再任された。野田政権の凋落から、12年9月に行われる自民党総裁選は、事実上の次期首相を選ぶ選挙になるとマスコミの関心が日々高まった。石原は「谷垣さんを支えるために政治をやってきたわけでは決してない。日本、自民党をなんとかしなければならない」と述べ総裁選立候補を表明した。

12年9月10日谷垣は「党内を掌握できなかった責任を取る」として出馬を断念した。谷垣も出馬に意欲を示していたため、総裁を押し退ける形で出馬を強行した石原に対する批判の声があがった。麻生太郎は9月13日の記者会見で「この人は下剋上とか平成の明智光秀という、有り難くない冠を当分戴くことになる。私の人生哲学には合わない」と批判した。

9月13日午前テレビ出演した石原は、福島第一原子力発電所事故による汚染土処理について「福島原発の第一サティアンしかない」と大衆受けを狙った発言をした。サティアンとはオウム真理教が数々の事件を起こした教団施設の名称である。被災者に配慮を欠いた発言に、同日夜「単なる言い間違いだ」と釈明したが、これに先立つ11年6月6日にもテレビ出演して同じ発言をしていたことが指摘された。石原の失言や態度豹変はこれだけではない。

01年10月規制改革担当大臣であった石原は「北海道の道路は車より、ヒグマが多く走っている」と杜撰な高速道路建設を批判していたが、08年9月福田辞任後の総裁選に出馬した石原は態度を変えて、釧路の演説で「釧路から札幌まで高速道路はつながります。皆さんに活用される社会資本整備になる」と述べた。総裁選の結果は麻生が勝利し、石原は大敗して4位に終わった。

さて、石原には総裁選に強気なわけがあった。石原は03年9月第一次小泉第二次改造内閣国交相に横滑りして道路公団民営化に取組んだ。しかし道路族のドン森喜朗青木幹雄古賀誠ら長老の激しい抵抗にあい、道路公団総裁・藤井治芳を更迭しただけで完全民営化は見送られた。面目を保った長老らは見返りに石原を党幹事長に押し上げたという経緯があった。

12年9月26日自民党総裁選が行われた。第一回投票では石破茂199票、安倍晋三141票、石原伸晃96票であった。1位と2位の決戦投票では、安倍108票、石破89票で、安倍が勝利し総裁となった。言葉が軽く人徳のない石原は首相にふさわしくないと、同僚議員たちは敬遠したのである。


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