韓国人のベトナム戦争①

ベトナムは54年ディエン・ビエン・フーの戦いで植民地宗主国フランス軍を撃滅した直後から米国との戦争が幕を開けたと言える。この軍事的大勝利にも関わらず、ベトナムジュネーブ協定で妥協しなければならず、北緯17度線を境に南北が分断される苦痛を味わうことになった。

米国は南ベトナムに親米反共政権ゴー・ディン・ジエムを擁立し代理統治をはじめた。ジエムは南北総選挙の実施による統一政府樹立というジュネーブ協定の履行を拒否した。協定通り南北総選挙が実施されればホー・チ・ミン率いるベトミンの勝利が確実視されていたためである。

結局、総選挙は行われず、ジエム政権は秘密警察による暴圧的政治を行うほかなく、ソ連・中国の支援を受けたベトナム共産党主導による「南ベトナム解放民族戦線」の組織網だけが拡大した。63年11月軍部内の反ジエム勢力によるクーデターでジエムは殺害され、米国ジョンソン政権は直接介入方式を選択することになった。ジョンソンは64年8月トンキン湾事件を自作自演して、65年3月北爆を開始した。

65年米国は「ベトナム戦争の国際化」でベトナム軍事介入の大義名分を確保するために25ヶ国に参戦を要請した。軍事クーデターで韓国政権を掌握し正統性を欠いていた朴正煕大統領は、米国から駐韓米軍撤収ないし縮小をしないという確固たる公約を得て韓国の安全保障を確保し、さらに米国から経済的・軍事的援助を獲得、ベトナムでの外貨獲得という実利からベトナム参戦を決定した。

65年から73年まで、青龍、白馬、猛虎部隊などあわせて312,848名の「ダイハン」が、熱帯の地ベトナムに赴いた。そのうち5,099名が命を落とし、霊魂となって戻ってきたのである。さらに負傷1万余名、数万名の枯葉剤(ダイオキシン)被害を生んだ。

注目すべきは、英国ウィルソン首相は度重なる米国の参戦要請に、6名からなる儀仗兵を派遣することで、辛うじて米国の体面を保たせたことである。第一次、第二次世界大戦で大いに疲弊し三流国家に転落した英国を、マーシャルプランによって再度一流国家となる手助けをしたのは米国である。

その英国でさえ儀仗兵しか送らなかった名分のない戦争、世界の大部分の国が背を向けた戦争に、本当にベトナム人が助けを願っているのかといったことへの理解もないまま、韓国は自らすすんで延べ32万の兵力を派兵したのである。


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