韓国人のベトナム戦争②

テト攻勢は68年1月31日に始まった。67,000人から84,000人の解放民族戦線(べトコン=米軍が名付けた蔑称)のゲリラが、ほぼ総ての都市を同時に集中攻撃して占領した。44の地方都市のうち36を攻撃し、245の町のうち72を攻撃した。サイゴンも奇襲されアメリカ大使館の広場にまで進入した。

米国人は、政府の発表のようには米軍が政治的にも軍事的にも勝利できないことを、しかと目撃したのである。米国のテレビは、越南治安局長がベトコン捕虜の頭に拳銃を撃ち放って殺害する瞬間を放映した。これは全世界はもちろんベトナムの人々に衝撃を与えた醜い映像であった。こうしたことから米軍の作戦はさらに残虐化した。ナパーム弾と枯葉剤ベトナムの総ての森と平原を焼払い村では組織だった虐殺がなされた。

同年3月16日の朝、ソンミ地域のソムランに、ロケットヘリの機関銃で援護射撃を受けた米軍が投入された時点で、村民の抵抗はなかった。米軍は逃げようとする無抵抗の村民を撃ち家を焼いた。続いて増派された米軍も村人を集めて無差別射撃を加え、女性が輪姦され残虐な方法で殺害された。ソンミ4村合計で504名が虐殺された。米軍の唯一の被害は、この虐殺に嫌気がさし、抜け出すために自分で足の甲を撃って負傷した黒人兵士ハーバート・カーターだけだった。(ミライ虐殺事件)

この事件は偶発的な殺人ではない。周到に計画されカメラ持参で虐殺の全過程を記録しながら行われた。この映像のお蔭で米国人がもっていた、世界最高の国民としての傲慢が抉り出された。この虐殺命令を下したメディナ大尉とそれを忠実に実行したキャリー中尉を含む15名の将校が、69年10月から70年3月までに起訴された。

69年12月8日ニクソン大統領は記者会見で「これは明白な虐殺とみられ正当化することはできない。我々は(ベトナム)市民にこのような武力を行使することはできず行使してはならない」と述べた。しかし、狂犬と綽名されるメディナはじめ将校のすべてが軽い判決を受け赦免された。キャリーは71年3月に判決を受けて、月給と手当を奪われ軍隊からも除名された。しかし、ニクソンはキャリーの釈放を命じ、自由の身となったキャリーは後にジョージア州で有名な宝石商となった。

虐殺が起きたのはソンミ村だけではなかった。米軍はベトナム全地域でこうした犯罪を無数に犯した。毒ガスを撒き、食べ物・飲み水に毒を混ぜ、民家を焼払い、火炎に人々を投げ入れ、銃を乱射し、ナイフで切りつけた。南も北も問わず何処にでも爆弾を投下した。虐殺による犠牲者は武器を持たない老人・女・子供たちで、まさに米国式ホロコーストが凶行されたのである。

ベトナム共産主義を選択しようとしまいが、それを決めるのは米国ではない。米国が働いた蛮行を、世界はそしてキリストも、決して許すことはあるまい!米軍の傭兵として従軍した韓国軍もソンミ(ミライ)虐殺事件発生以前から、ベトナム各地で、米軍同様、残酷な輪姦、ジェノサイドをなんら躊躇いもなく狂行した。


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