韓国人のベトナム戦争③

韓国海兵隊の水兵統制員・金栄萬はダナン港でベトナムに第一歩を印した。船のなかで私が聞いた話は「強姦をしたら必ず殺せ、殺さなかったら面倒が起きる。子供も大きくなったらベトコンになる。だからみな殺さねばならない、といったものでした」「戦闘は頻繁になり銃声と砲弾が鼓膜を破り、悲鳴をあげて倒れる戦友の死体、手足がもげたまま血まみれになって泣き叫ぶ戦友を抱きかかえて、徐々に精神がおかしくなっていきました」と語る。

ゴーザイ集落は韓国兵の暴虐が最も苛烈を極めた地である。66年1月23日から2月26日にかけ、集落全体で380人もの老人、女、子供が殺戮された。同集落にあるタイヴィン村を襲撃したのはソウル防衛師団・猛虎部隊であった。以下は15発もの銃弾を受け、奇跡的に一命をとりとめたグエン・タン・ランが目撃した一部始終である。

「100人を超える韓国兵は、村の1軒1軒のドアを足で蹴破ると、屋内の人間の髪の毛を掴みながら引張り出し、65人の村人を一か所に集め、銃で追い立てて数人単位に分かれさせ4〜5人ずつ集中砲火を浴びせ殺しました。その最中、韓国兵は若い女性を見つけると、乱暴に地面に転がし私たちの目の前で輪姦し始めたのです。そして乱暴の限りを尽くされ、既に微動だにしなくなった娘を、最後には撃ち殺しました」(ゴーザイの大虐殺)

以下はヴィンスアン村の生存者グエン・トイの証言である。「67年3月19日田圃に行って仕事をして4時頃戻ってきた。そうすると死体が散乱して血がたくさん流れていた。妻と4人の子供だった。生後4日の産まれたての赤ん坊も死んでいた。死体の下に何かがモゾモゾしていて、引張り出してみると4歳の娘だった。ダイハン、ダイハンと呟いていた。娘をおぶって病院に走った。娘は全部で5発もの銃弾を浴びていた」

「実際のところ仕事の最中に村の方から銃声が聞こえた。しかし村に戻れなかった。田圃は遠く離れていたし、本当のところ怖かったからである」「5発の銃弾を浴びた娘は度々高熱を出し、身体は膿と傷だらけである」「娘は今も後遺症に悩まされている。関節がズキズキ痛むし、神経痛に悩まされながら生きているんだ」「私は韓国軍が憎い!もちろん憎い!今も憎い!」

68年2月24日海兵隊第2旅団「青龍部隊」の兵士が狂ったようにやってきて老人・女・子供を虐殺した。ハミ村35家族のうち135名が死んだ。だが20名が負傷し生き残った。

ファム・ティ・ホアは「虐殺の数日前から韓国軍は村人を集めてパンを配った。だからその日の朝もパンをくれるのかと思って一ヵ所に集りました。殺すことがわかっていたら逃げたでしょうし、子供まで連れて集りなんかしなかったでしょう。ところが突然村人に銃を向け手榴弾を投げ始めました。あぁ----悲鳴と銃声、今も鮮明に覚えています」と語る。

ところがその後にもっと大きな問題が起きた。韓国軍は集団射殺直後ブルドーザーを持込み、死体が散らばっていた現場を踏み潰したのである。既に腕と足がバラバラになっていた死体は踏み潰され、形がわからないほどグチャグチャになった。(ハミの虐殺)


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