韓国人のベトナム戦争④

ベトナム戦争で稼いだ10億ドルは、朴正煕の独裁を強固にし、軍事文化を韓国に根深く植えつけると共に、「米国の傭兵」という歴史的汚名を永遠に残すことになった。朴政権が祖国と民族の名のもとに、自分だけの利害を普遍的な利害と同一視した結果である。

70年1月10日駐韓米国大使館が米国務長官に送った秘密文書には、民間人虐殺の処理に関する報告がある。駐韓米国大使ポーターによれば、朴大統領と秘書室長、外務部長官等が緊急会議を開き、その結果、青瓦台は民間人虐殺の隠蔽を決定し、韓国メディアに箝口令を敷くことになった。また米国防総省は、韓国軍に対するいかなる指揮責任もないと明言した。つまり、虐殺のすべての責任は韓国軍が持たねばならないとしたのである。

米国は世界的なベトナム反戦運動の盛り上がりや、米国経済の疲弊によって和平を模索した。73年1月米国・北ベトナム南ベトナム・解放戦線の四者によるパリ和平協定が成立して米国軍は撤退した。ベトナム戦争に参戦したということは、米国では誇らしいことにはならなかった。しかし、韓国ではベトナムの自由と平和を守るために行った勇猛無比な海兵隊に敬意を表し、ベトナムでどんなことをしたか誰も尋ねなかった。

韓国参戦軍人は家を興した張本人であり、経済発展の主役でもあった。民間人虐殺を論じる者もなく、それと共に参戦軍人が経験した混沌と葛藤も埋もれていった。肉が腐り全身に斑点が出ても、それが枯葉剤の被害なのかさえわからないまま、戦争の傷に一人耐えなければならなかったのである。その後ベトナムの内戦は解放側に有利に展開して、75年4月解放軍の進攻でサイゴンが陥落、南ベトナム政府軍は全面降伏した。

74年8月15日朴大統領は光復節の祝賀行事に参加していたところ、北朝鮮工作員の指令を受けた在日韓国人・文世光に4発の銃撃を受け、朴自身は無事だったものの夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した。文が所持していた拳銃は、大阪府内の派出所から盗んだものだった。釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起っていた79年10月26日、朴は側近のKCIA部長・金戴圭によって射殺された。

ベトナム戦争で武勲を挙げた蘆泰愚大統領は、92年ベトナムとの大使級外交関係を樹立し、98年12月には金大中大統領がベトナムを訪問。「両国間に一時不幸な時期があった」として遺憾の意を示した。これに対し韓国政府外交部は「これは謝罪ではない」とコメントした。

01年8月23日初めて訪韓したベトナム国家主席チャン・ドゥク・ルオンは「私達は米国とも関係改善を終え、韓国との関係改善も重視している」「韓国参戦によるベトナム人の苦痛があったという指摘もあるが、両国が未来志向的関係を構築することを望む」と述べ、金大中は「私達が不幸な戦争に参与し、本意ではないがベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」と公式謝罪をした。

だが、野党や軍人が猛反発すると金大中は自分の発言を取り消した。この時、野党ハンナラ党副総裁で朴正煕の娘でもある朴槿恵は「金大統領の歴史認識を憂慮せざるを得ない。参戦勇士の名誉を傷つけるものだ」と激しく批判した。朴槿恵には金賢娥の次の言葉を贈りたい。「隠蔽と記憶の歪曲は、手のひらで太陽を隠すようなものだ」


レース結果共鳴チェック