ロスチャイルド家とは--⑱

ロスチャイルド家金城湯池・英国に激震が走った。スコットランドの独立をめぐる住民投票は、反対が55.3%を占める結果となり独立は否決された。それでもグローバル資本を痛烈に批判したことにかわりない。メアリー・ステュアート(1542年〜87年)の悲しい生涯を顧みれば安堵感さえある。

16世紀にはイギリスという国はなく、南部のイングランド(新教)と北部のスコットランド(カトリック)という二つの王国が、宗教や領土をめぐって争っていた。そのためスコットランド国王ジェームズ5世は、同じカトリックのフランスから王妃としてマリー・ド・ギーズを迎えた。1542年に生まれたメアリー・ステュアートは、父の死によって生後6日でスコットランド女王となった。王の死因はイングランドの絶え間ない侵攻と貴族たちの反乱による心労と言われている。

これを奇禍としたイングランドのヘンリー8世は、息子の皇太子エドワード(5歳)との婚約を目論み、スコットランド貴族を買収し婚約成立に漕ぎつけたが、専制君主ヘンリー8世を警戒する母后ギーズはメアリーを修道院に匿った。フランスもフランソワ王太子との婚約を望み、ヘンリー8世の死亡によって縁組が整い58年4月パリのノートルダム寺院で結婚式が行われた。翌59年7月国王アンリ2世の事故死で王太子はフランソワ2世として即位した。

メアリーはフランス王妃であるとともにスコットランドの女王であり、イングランドでもメアリーの祖母がヘンリー8世の妹にあたることから順位の高い王位継承権を有していたのである。フランソワ2世は生まれつき病弱な体質だったため、ありとあらゆる病気をもち、16歳の若さで亡くなった。フランソワの死から半年たらずで母ギーズも亡くなり、19歳のメアリーはスコットランドに帰国せざるを得なくなった。

メアリーは65年熱心なカトリック、ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと再婚した。ダーンリーは短気で威張り散らし行政能力は皆無で、二人の関係は冷え切り66年3月メアリーの秘書ダヴィッド・リッチオを妊娠6ヵ月のメアリーの面前で殺してしまったのである。66年11月男子を出産したメアリーは、軍人ボスウェル伯らを集め夫への対策を練るうちに、ボスウェル伯を頼りにし信頼は激しい恋に変っていった。

67年1月深夜エジンバラ城外の屋敷で爆発が起き、瓦礫のなかからにダーンリーと側近の者たちの死体が発見された。国の内外を問わずメアリーへの夫殺しの疑惑が生じた。3ヶ月後、メアリーは犯人と見做されていたボスウェル伯と結婚し、国内外の非難が集中した。メアリーはロッホリーベン城に移され、廃位を強要され1歳の幼児がジェームズ6世として即位した。メアリーは6,000人の兵を集め復位を計画したが敗れ、68年5月エリザベス1世にすがりイングランドに逃れた。

エリザベスとその大臣にとって、メアリーを抱えている間はいつカトリック国の軍隊が乗り込んで来ないとも限らず、起爆剤を抱えた状況であった。エリザベスの警察長官はエリザベス暗殺未遂という謀略に成功して、委員会はメアリーに死刑を宣告した。エリザベスは再三の死刑執行書への署名を渋り続けたが、87年ついに署名。処刑は2月8日朝8時と決まった。

1603年エリザベスの死とともにエリザベスの遺言によって、メアリーの息子ジェームズ6世がジェームズ1世として王位を継ぎ、イングランドスコットランドを一つに結び、ブリテン島に住む人々の悲願であった連合王国が出現したのである。


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