ロスチャイルド家とは--29

1945年大東亜戦争終結し、46年から中国大陸で蒋介石の国民党と毛沢東共産党との内戦が再燃した。台湾では連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために、国民党政府の官僚や軍人が進駐し行政を引継いだ。彼等は強姦・強盗・殺人を犯すばかりか、台湾の資材を接収・横領し上海で競売にかけた。その結果、台湾の物価は高騰し企業の倒産が相次ぎ失業も深刻化した。不正の少ない日本統治を体験した台湾人は「犬去りて豚来る」と揶揄した。

47年2月27日台北市で闇菸草を販売していた女性に対して、役人が暴行を加える事件が起き、翌28日台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし憲兵隊がこれに発砲したため抗争は台湾全土に広がった。(二・二八事件) 中国本土にいた蒋介石は3月8日国民党軍を台湾に派遣して、無差別発砲や銃殺を続けて台湾人を虐殺した。その数28,000人という。大陸では腐敗した体質を持つ国民党軍が共産軍に敗北を重ね、49年12月蒋介石は台湾に逃れた。

49年10月 中華人民共和国を建国した毛沢東は、スターリンに原爆製造技術供与を要請したが、「毛沢東は日本のスパイ」と疑っていたスターリンはこれを拒否。54年台湾海峡危機ハンガリー動乱を巡るソ連内部の政治混乱を機に、フルシチョフは渋々承諾した。64年10月16日新疆ウイグル自治区で初の核実験が、67年6月17日初の水爆実験が行われた。延べ50回以上の核実験により129万人以上が被曝し、19万人以上が死亡した。

58年開始の第2次五ヵ年計画で、毛沢東は数年間で米国・英国を追越すことを夢見て、急速な工業化・農業集団化を図ろうと大躍進政策を実施した。結果は中国経済の大混乱と数千万人の餓死者を出す大失敗に終り、毛沢東は59年4月国家主席劉少奇に託して辞任した。

66年毛沢東劉少奇訒小平らから権力を奪い返すための謀略を企てた。封建的文化・資本主義文化を批判し新しく社会主義文化を創生しようと最もらしい名目をつくり、11年の長きに渡り「文化大革命」を断行した。第11期3中全会は「文革時の犠牲者数は死者40万人、被害者1億人」と推計しているが、内外の研究者による調査では、死者40万人から1,000万人以上と諸説ある。

ソ連ゴルバチョフによる民主化・自由化の進展を背景に、中国でも民主化を求める機運が高まった。それが89年6月4日天安門での学生や一般市民の100万人規模のデモに発展し、これを恐れた党の実力者・訒小平李鵬首相等が軍隊を投入して鎮圧した。(天安門事件) 事件発生から10日間の死者は31,978人に及んだ。これには戦車で轢き殺され、手足がバラバラとなった遺体は含まれていない。この残虐性はアングロサクソンに優るとも劣らない。

93年3月無能な江沢民国家主席となって党幹部に汚職を推奨した。ここから官僚・軍幹部の大胆な不正蓄財が蔓延する。一方昨今の人民の賃金は急上昇したものの医療制度や年金制度が皆無のため、人民はゴールドの購入や貯蓄に走っている。つまり中国は生産拠点としても消費拠点としても全く魅力のない市場となってしまったのである。これがロスチャイルド等が人工的に造った中国の実態である。


レース結果共鳴チェック