ロスチャイルド家とは--30

1941年7月日本軍は南部仏印に進駐した。同年8月1日ルーズベルトは日本を経済的に追詰める石油禁輸強化を発令し、ABCD包囲網を敷いた。さらに同月ルーズベルトチャーチルは大西洋上で会談して大西洋憲章を発表した。領土の不拡大・不変更や民族自決を謳っているがチャーチルは「それはドイツ占領下のヨーロッパに限定される」とし、ルーズベルトも「大西洋憲章は有色人種のためのものではない」と側近に語っている。これがロスチャイルド等の本音なのだ!

この会談の真の目的はドイツに連敗を重ねる英国が、ドイツに勝利するには米国の参戦を必要とし、そのためにはドイツと同盟している日本を挑発して米国と戦わせるという戦術を練る会談であった。米国は英国との約束通り日米交渉で実行不可能なハル・ノートを突付けた。12月8日罠に嵌った日本海軍は、ハワイ真珠湾の米国にとってそれ程必要としないオンボロ艦隊を攻撃するに至るのである。

1940年7月第二次近衛文麿内閣は東アジアから白人諸国の植民地支配を廃する「大東亜共栄圏」構想を発表し、43年11月東条英機内閣は東京で「大東亜会議」を開催した。出席国は日本・中華民国満州国・フィリピン・ビルマ・タイのほかインドもオブザーバーとしてチャンドラ・ボースが出席した。ボースのインド独立の必死な訴えに共鳴した東条ら政府・軍首脳は手を差し伸べる決意をした。

インパール作戦は援蒋ルートを断つ目的で早い段階で立案されていた。ボースは「インド国民軍」を組織し日本軍傘下の部隊としてこの作戦に参加した。ボースの指揮のもと、苛酷な状況にも関わらず、インド国民軍の士気は高く規律も厳格であったという。この作戦は杜撰な作戦の代名詞となっているが、日本がインド独立のために戦ったという事実が、戦後一貫してインドが親日国であり続けている大きな理由となった。

インドネシア(蘭領東インド)は45年8月15日独立を宣言したが、宗主国であったオランダが再びインドネシアを植民地にしようとして戦争状態となった。独立の大義に共鳴した旧日本軍人1,000名がインドネシア軍に参加し、その半数が戦死した。優勢であった蘭軍は世界の轟々たる非難に抗しきれず、49年12月インドネシア軍は独立を勝ち取った。日本人が共に戦ったことでインドネシア人はその恩を忘れることがない。

では、1910年8月〜1945年8月の韓国併合はどうだろう。李朝時代の貴族・両班を排斥し、奴婢を解放した。小学校5,000校以上、大学など1,000校以上を建設し、識字率4%が61%を超えた。米の反当り収穫量が3倍となり、平均寿命が24歳から56歳となり、人口1,300万人が2,600万人となった。鉄道100㌔が5,000㌔となり、一人当たり国民所得40ドルが倍増した。それでも朴槿恵大統領は「日本を1,000年恨む」と言う。

これが、米国・英国(ロスチャイルド等)が恐れる日本人の姿なのである。彼等は日本人が捕虜の人肉を食ったというプロパガンダ映画を用意した。しかし我々日本人は、我々の祖父我々の父を誇りとし、我々の子孫のために「自分の国は自分が守る」という強靭な決意を固め、ロスチャイルド等と戦わなければならない。


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