虐殺も強姦も無かった--①

欧州ではヒトラーが台頭し軍事力を強化していた。東西挟撃を恐れたスターリンの戦略は、東部国境の反共勢力日本と蒋介石を無力化することであり、両者に戦争させることであった。1936年12月12日蒋介石は張学良の要請で、共産軍毛沢東の本拠地延安総攻撃の打合せのために西安に赴いた。これが罠だった。13日早朝張学良・楊虎城の数千の反乱軍が宿舎を包囲、裏山に脱出した蒋介石は逮捕されたが、24日突然釈放された。(西安事件) 

37年7月7日北平(北京)での盧溝橋事件に続き、7月29日午前2時、北平の東12㌔の通州で、南京放送の「日本軍は惨敗した。次の標的は冀東軍である」というデマに惑わされた冀東防共自治政府の保安隊3,000名が日本人居留民を急襲し260名を虐殺した。男性の一部は首を切断され、女性は殆ど強姦されたあげく殺戮された(通州事件)この時無残な死体の山や首を並べた写真が撮影され、後年、日本軍による南京大虐殺の証拠とされるのである。

37年8月12日未明、支那正規軍30,000人が上海まで前進し国際共同租界の日本人区域を包囲した。翌13日、日本海軍陸戦隊4,000人に対し機関銃による射撃を開始、小規模な戦闘が勃発した。日本軍の苦戦が続いたため、11月5日日本は新たに第十軍を杭州湾北岸に上陸させ、上海の支那軍を包囲する作戦に出た。この作戦が功を奏し9日支那軍の一部は、首都南京に向けて退却を始めた(第二次上海事変)これで蒋介石スターリンの指示通り日本軍のドロ沼誘導に成功したのである。

支那軍は南京に逃げる行きずりに堅壁清野作戦と称して、民家に押入り強姦・殺戮・略奪・放火を強行した。殺し尽くし・奪い尽くし・焼き尽したのは日本軍ではなかったのである。南京城外には無数のコンクリート製のトーチカが設置され、兵が逃げないようにトーチカの床に鎖で足を縛り付け、長江への逃げ道になる邑江門には仲間を躊躇なく撃つ督戦隊が配備された。さらに城内の南京市民を安全区や城外に避難させ、彼等の民家を焼払った。

11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。12月7日南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、空爆も激しくなってきたことから蒋介石は南京から離れた。この時、蒋介石は「南京で日本軍による大虐殺があったことにしよう」と指示を出したのである。これは東中野修道亜細亜大学教授が、台北の国民党党史舘で発見した「中央宣伝部国際宣伝処工作概要1938年〜1941年」に残されているという。

12月9日中支那方面軍司令官の松井石根は、支那軍に対して無血開城を勧告した。支那軍はこれに応じなかったので、10日日本軍は進撃を開始した。12日夕方唐生智は撤退命令を出した。13日面積40㌔㎡およそ山手線の内側程度の南京城が陥落した。日本軍が高さ20mの外壁を越えて内に入ると、殆ど無人であったが夥しい数の軍服が脱ぎ捨てられていたという。支那兵は便衣兵となって安全区に潜入し、12月末まで続いた停電、その暗闇を利用して強姦事件を引起した。

邑江門外では算を乱して逃亡する支那兵と、督戦隊との激しい同士討ちが展開され犠牲者を徒に増やした。長江岸では小舟に群がった兵士同志の争いが繰返された。乗船した兵士が乗船しようとする他の兵士の手首や腕を切り落としたという。自分さえ良ければ何でもやるという、中国人独特の気質は現在に至るも何ら変わらない。


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