虐殺も強姦も無かった--②

1937年12月17日司令官・松井石根大将はじめ欧米の記者達も南京に入城した。米国のパラマウント・ニュースも南京占領の記録映画を作ったが「30万人大虐殺」は報じていない。英国系新聞「ノースチャイナ・デイリーニュース」は日本軍が食糧などを配って南京市民が喜んでいる光景を写真入りで報道し、日本の新聞各社も日本兵が武器も携帯せず南京市民から買物をする姿、支那の負傷兵を手当する日本の軍医の姿を写真入りで解説している。

安全区のリーダーで、日記で南京大虐殺を捏造したヨーン・ラーベは「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝致します」との感謝状を松井大将に贈った。12月18日南京国際委員会は、日本軍の南京攻撃前の人口を20万人とし、1ヶ月後の人口を25万人と公表した。この日支戦争を延安で傍観していた毛沢東は、38年5月抗日戦争研究会の講演で「南京の日本軍は支那軍を包囲したが殲滅はしなかった」と述べ日本の戦略を批判している。

国民党政府は37年12月1日から38年10月24日まで、300回の海外向け記者会見を行ったが、一度として「南京虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と一言も述べていない。

37年12月24日蒋介石は手紙でルーズベルト南京大虐殺を訴えた。彼の妻宋美齢は「国民党航空委員会秘書長」の肩書で蒋介石の通訳として、中華民国大使館付陸軍武官ジョセフ・スティルウェルや陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート大佐との交渉に同席し米国からの軍事援助を引出した。その後アメリカ合衆国義勇軍フライング・タイガース」を組織し米国戦闘機に青天白日旗を施し、日本本土へのスニーク・アタック(騙し討ち)を計画する。

日本軍は中国中心部への進軍を急速に進め、38年6月6日河南省開封市を占領、鄭州市が攻略される状況となった。日本軍が同地の攻略に成功すれば、武漢西安の危機に直結すると危惧した蒋介石黄河の堤防破壊により洪水を起こすことによって、日本軍の進撃を阻止する挙に出た。6月9日と11日の氾濫による水没範囲は11都市、4,000村に及び農地が農作物ごと破壊され、水死者100万人、被害者600万人に達した。

12日日本軍の二部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも、50名以上が自発的に応援に出た。さらに日本軍は筏船百数十艘を出して、住民とともに救助活動を行った。対岸の支那軍は現場に近づく日本軍や住民に銃撃を加え、防水作業を妨害した。日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮・通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。

6月11日国民党の通信社である中央社は「日本の空爆黄河決壊」という偽情報を発信した。ロンドン・タイムズは「中国人は堤防を破壊して日本軍の進撃を止めた。中国のプロパガンダは額面通りに受取られるべきではない」と報じた。日本軍は進撃を停止せざるを得なかったが、進路を変更して二ヵ月後の10月26日には武漢三鎮を占領する。

堤防決壊の後遺症として42年に河南省で干ばつによる飢饉が起こった際、道端には餓死者と凍死者が溢れ、飢えから屍肉が食べられたという。43年の冬日本軍が河南の被災地に入り、軍糧を放出して多くの人命を救った。そのため、河南省の人々は日本軍のために道案内、後方支援を引受けた。さらに日本軍に加わり支那軍の武装解除を助けるなどした者の数は数えきれないほどであった。


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