虐殺も強姦も無かった--③

1935年7月から8月にかけて、モスクワでコミンテルン第7回大会が開かれた。ロスチャイルド等「戦争屋」の傀儡であるスターリンは「日本とドイツを欺くためには宥和政策を以って彼等を安心せしめ、日本を支那と米国・英国、ドイツを英国・フランスと戦わせて漁夫の利を占める」という戦略を発表した。スターリンは言葉通りドイツと39年8月に不可侵条約を、日本と41年4月に中立条約をそれぞれ締結した。

37年7月の盧溝橋事件以来、日本の船津工作・トラウトマン工作・宇垣工作等の和平工作は、戦火の拡大と並行して続けられた。トラウトマン工作では、支那側からは、故意に交渉を引き延ばそうとする回答しか得られなかった。45年1月蒋介石の顧問だったW・H・ドナルドがNY・タイムズのインタビューに「日本は38年から41年の間に12回も和平提案を行った。その条件は支那側に有利なもので、支那に対する領土的要求は含まれていなかった」と答えている。

マルクス信奉者近衛文麿は37年7月26日、陸軍の要求が無いにも関わらず9,700万の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した。さらに38年1月14日和平交渉の打切りを閣議決定し、1月16日「爾後国民政府ヲ對手トセズ」の声明を国内外に発表。加えて38年4月国家総動員法を公布し、40年9月外相松岡洋右は日独伊三国同盟を締結し、同年11月汪兆銘を主席とする南京政府を承認するなど戦争拡大策を執った。

近衛は去る33年に「昭和研究会」という研究会を発足させた。その中心メンバーが後の近衛内閣を支えるのだが、その中にゾルゲ事件の首謀者として44年に絞首刑となる朝日新聞記者・尾崎秀実がいた。近衛は組閣時に現在の官房長官というべき書記官長に共産主義者である風見章を指名した。正確な支那情報を発する尾崎秀実を昭和研究会のメンバーに勧誘し、朝日新聞社を退職させ内閣嘱託に抜擢したのは正に風見章だったのである。

39年9月1日ドイツ軍がポーランドを侵攻して、3日英国・フランスが対独宣戦し第二次世界大戦が始まった。9月17日ソ連軍もポーランドに侵入し、バルト3国も占領した。さらにフィンランドのカレリア地方を奪ったために、国際連盟は同年12月ソ連を侵略国として除名した。またバルカン半島進出をめぐって独ソの対立が激化し、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破棄、41年6月22日ソ連に電撃攻撃を仕掛けたが、日本は日ソ中立条約を遵守した。

1995年アメリカ国家安全保障局(NSA)が「ヴェノナ文書」を公開した。この文書は第二次世界大戦前後に米国内のソ連のスパイ達がモスクワと交わした秘密通信を長年かけて研究解読した記録である。これによりルーズベルト大統領の側近であったアルジャー・ヒスをはじめとする200人以上のスパイやその協力者が、政府高官として働いていたことが判明した。つまり支那も共産化し世界を二極構造にして戦争を煽りたいロスチャイルド等の方針に、ルーズベルトソ連スパイを積極的に登用してそれに答えたのである。

41年12月の日米開戦を決定づけるハル・ノートを作った財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトもソ連のスパイであったことが、このヴェノナ文書により確認されている。そして42年ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は「南京大虐殺」を非難する反日映画の製作をフランク・キャプラ監督に命じた。


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