朝鮮人虐殺の真実------④

「放火、強盗、強姦、殺人、井戸への毒物投入、爆弾投擲など朝鮮人による暴動は虚報だった、自警団は狂気のように朝鮮人を殺害した」という捏造歴史観を疑うことなしに吉野作造の論文は、大江健三郎松本清張吉村昭佐野眞一、松尾尊禱、今井清一、松尾章一といった作家・歴史学者に相続され、それが日本人の自虐思考の礎のようにして固まったまま、今日に至った。私も吉村昭や片野次雄にコロッと騙された一人である。

また、吉野は朝鮮人虐殺を2,613人としたが、上海の大韓民国臨時政府の独立新聞(裏の顔は義烈団)の発表は6,661人で、彼等の謀略冊子は23,000人と言い募っていた。だが2013年6月李承晩政権が作成した被害者289人の名簿が発見された。正に、この捏造は北朝鮮に牛耳られた韓国が喚く、慰安婦強制連行・Sex Slave20万人のソースとなってしまった。尚、当時の日本政府が認める過剰防衛による朝鮮人の死者は233人である。

朝鮮独立運動家と社会主義者とが連携して我国に揺さぶりをかけ、国家の存亡を左右するような謀略を企図していたことは紛れもない事実であった。23年9月3日東京淀橋警察署に無政府主義者朴烈とその愛人金子文子が連行された。朴烈は爆弾をもって摂政宮はじめ日本の実力者のすべてを殺害する計画を持っていたと訊問に答えている。45年10月に出獄した朴は翌年10月在日本朝鮮居留民団を結成して初代団長に就任する。

大震災で大杉栄社会主義者が殺された甘粕事件や、労働運動家10人が殺害された亀戸事件に衝撃を受けた無政府主義信奉の難波大助は、23年12月27日帝国議会の開院式に臨む摂政宮を虎ノ門で近接狙撃するが失敗、「革命万歳」と叫び逃走を図ったが周囲の群衆の暴行を受け、警備の警官に現行犯逮捕された。正に後藤新平の危惧の念は現実となったのである。この虎ノ門事件で山本内閣は総辞職。

24年上海の大韓民国臨時政府の大統領に金九が就任した。彼は中国国民党政府の総統孫文に上海臨時政府を正式に承認させた。25年3月の孫文の死後も蒋介石からの支援を取付けた。さらに金九は31年義烈団に匹敵するほどのテロ組織「韓人愛国団」を結成し、31年12月13日昭和天皇襲撃を懇願してきた李奉昌に手榴弾二個を与えた。桜田門事件は32年1月8日午前11時頃発生した。代々木練兵場の観兵式典終了後、皇居に戻る天皇の馬車に手榴弾が投込まれ、失敗した李奉昌は同年10月10日死刑に処せられた。

32年1月第一次上海事変が始まると金九は上海臨時政府を杭州に移した。同年4月29日上海の虹口公園で天長節祝賀記念式典が挙行されるなか爆弾事件が起った。上海派遣軍司令官・白川義則大将は爆破の傷がもとで、5月26日死亡した。第三艦隊司令長官・野村吉三郎中将は左眼を抉られ、上海駐在日本公使・重光葵は右脚三分の一を吹き飛ばされた。犯人は金九に襲撃を願い出た尹奉吉である。尹は普段は中国服を着て路上で野菜を売り歩いていた青年で、同年12月19日銃殺刑となった。

日本は蒋介石スターリンルーズベルトの罠にかかり戦争に引き摺り込まれて大敗を喫した。48年8月15日米国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国が建国された。金九は南北統一を進めるべきと主張し、南半部だけでの単独選挙に反対した。しかし議会多数の支持を得た李承晩が初代大統領に就任した。49年6月26日金九は陸軍砲兵少尉安斗煕に射殺された。安は無期懲役の判決を受けるが一年後には特赦されて韓国軍に復帰、李承晩の庇護のもと中領(中佐)にまで昇進した。92年金九の暗殺は李承晩の部下の金昌龍の指示であったと暴露された。

さて、大正時代の人々は、誰からも強制されず自分達の町内と家族の命を護るという覚悟を持って自警団を組織した。GHQの War Guilt Information Program や3S( Screen Sport Sex )政策によって骨抜きにされた日本人に、侵略国家中国の国防動員法に立向かう勇気が有るだろうか?首都直下型地震が襲来すれば、在日中国人・その帰化人達が在日韓国・朝鮮人と共に徒党を組んで掠奪・暴行を働くことであろう。


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