残虐非道 李承晩----①

1948年4月3日 北朝鮮抜きの単独選挙に反対する済州島民が蜂起した。大韓独立促進国民会総裁李承晩は、軍、警察、右翼青年団に命じて、同年9月21日までの期間に非武装の島民の5分の1にあたる6万人を虐殺した。また島の村々の70%が焼き尽くされた。(済州島四・三事件) この事件で日本へ避難・密入国した島民はそのまま在日韓国人となった人々も多く、彼等の一部は大阪にコミュニティーを形成した。

同年8月15日大韓民国が建国され李承晩が初代大統領に就任した。3日後の18日反日に燃える李承晩は「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張。49年1月7日には対馬領有を宣言した。しかし米国は再三にわたって拒絶した。48年10月19日 全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊内の南朝鮮労働党の党員が反乱を扇動。その反乱は警察署や郡庁を占拠し、麗水郡から隣の順天郡に及んだ。李承晩は直ちに鎮圧部隊を投入し、一週間後の27日に鎮圧されたが非武装の民間人8,000人も虐殺された。(麗水・順天事件)

49年6月5日李承晩は韓国政府支持・北朝鮮政権反対・共産主義思想排撃の目的を以って、国民保導連盟を組織した。左翼からの転向者は義務的に加入することになり、その家族や同調者も登録すれば処罰しないとされ、優先的に食料配給・職業斡旋が行われたため、共産主義に全く無縁な人や官吏の実績向上のために登録した人もいたという。

ロスチャイルド等の台本通りに50年6月25日バズーカ砲でも貫通しないソ連製の戦車(T−34)300輌を先頭に10万人を超える金日成北朝鮮軍が、北緯38度線を突破して韓国に雪崩れ込んだ。田植えの時期であり帰郷する兵士が多く、韓国軍の防備は手薄であった。反日・反共に没頭し、国防を疎かにした李承晩の大失態である。いや、韓国内に多数のスパイを潜りこませ、正確な情報を得ていた金日成の勝利というべきであろう。

6月27日李承晩は保導連盟員・南朝鮮労働党関係者・収監中の政治犯の処刑を命じた!この悍ましい命令によって韓国軍や韓国警察は共産主義者の嫌疑をかけられた20万人とも120万人とも言われる民間人を裁判なしに虐殺してしまったのである。(保導連盟事件)

同日韓国政府は首都ソウルを放棄し水原に遷都。28日ソウルは陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江に架かる橋を、渡橋中の避難民を顧みることなく爆破した。犠牲者は500人〜1,500人とも言われる。(漢江人道橋爆破事件) これにより、漢江以北には多数の軍部隊やソウル市民が取残され、北朝鮮軍は同じ民族である韓国人を何等躊躇いもなく殺戮した。げに恐ろしきは共産主義者ナリ!

李承晩はこの保導連盟事件聞慶虐殺事件を徹底的に隠蔽した。虐殺された者の遺族やその親類筋は警察官から監視され、口封じされ沈黙を余儀なくされた。李承晩に続く歴代大統領もこのFACTを隠蔽しタブー視した。しかし事件から半世紀以上経過した08年1月24日北朝鮮のスパイと指摘された盧武鉉大統領は、保導連盟事件の犠牲者追悼式に送ったメッセージで、国家権力の不法行為に対し初めて謝罪を表明した。

同年9月6日日本のTVではじめてこの事件が取上げられた。TBSテレビで韓国での街頭インタビューがなされ、韓国人が本事件のことを知らないことが放送された。また、真相究明を求める運動家が「李明博政権は真相究明を望んでいない」と批判した。現在、処刑者に関して遺骨の発掘調査が進行中である。


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