残虐非道 李承晩----②

50年6月30日北朝鮮軍は漢江を渡河し、韓国の臨時首都水原に猛攻撃を加えた。7月1日水原は陥落し、李承晩は釜山を目指しながら保導連盟員の処刑を軍や警察に督励した。中国の国共内戦を戦った北朝鮮軍は忠北清州や全羅北道金堤で、青年団員、区長、警察官、地主やその家族数十万人を虐殺した。この虐殺から逃れた大量の韓国人が日本に押寄せ、凶悪事件や様々な在日問題を惹起し日本の秩序安寧を脅かしている。

李承晩は遂に朝鮮半島南端の釜山まで追詰められ、韓国軍は釜山を取囲むように防衛線を敷いた。この時韓国軍の英雄というべき金錫源が登場する。彼は15年に陸軍士官学校を卒業し、満州事変では自走砲中隊長(大尉)として戦果を挙げ、支那事変では歩兵大隊長(少佐)として従軍し、2個中隊を以って国民党軍第86師団を撃退した。この功績から朝鮮人初の功三級金鵄勲章天皇から授与された人物である。

反日に凝固まった李承晩は、金錫源に元日本兵の経験を持つ一個師団の編制を渋々認めた。金錫源は粛々と釜山東部の守備に就く。そこへ連戦連勝を重ねる北朝鮮の大軍が押寄せてきた。50年8月15日深夜銃撃戦が開始された。金錫源は頃合いを見て、兵力を敵右翼に集中すると一斉砲撃を浴びせ突撃を命じた。北朝鮮軍は慌てて後退を繰返す。ところが金錫源は突然全軍に退却命令を出した。これが大きな罠だったのである。

金錫源軍は退路を東に転じ海岸線に出た。北朝鮮軍は金錫源軍を一気に殲滅しようと必死に追撃。予め金錫源の作戦を知らされていた米軍艦艇が、北朝鮮軍目がけて一斉に艦砲射撃を浴びせた。米軍が誇る太平洋艦隊の主砲の前にT型戦車は無残に破壊され、北朝鮮軍の兵士達は敗走をはじめる。ところがその潰走ルートには、予め金錫源が忍ばせた伏兵が猛射を浴びせた。北朝鮮軍は予想外の損害を受け、盈徳を放棄した。

金錫源は韓国軍全面降伏・共産主義化を防いだ韓国の救世主である。しかし韓国政府は彼を親日という理由で、歴史から抹消し感謝することもない。韓国初代大統領李承晩時代からこの金錫源の活躍も保導連盟虐殺事件さえも隠蔽する、歴史隠蔽・捏造国家に堕してしまったのである。朴槿恵大統領に至っては伊藤博文を暗殺した安重根の記念館をハルピンに建立するなど、テロリストを礼賛する三流国家として世界の嘲笑を買っている。

マッカーサー元帥は戦況を一変させようと、包囲殲滅される恐れのある仁川上陸作戦を断行した。9月15日米国海兵隊を先頭に国連軍・韓国軍7万人が上陸に成功した。この時M26重戦車・重火器が大量に送り込まれた。挟撃された北朝鮮軍は算を乱して逃走した。これを知った毛沢東満州の実力者高崗に朝鮮派兵の準備を命じた。9月28日国連軍・韓国軍はソウルを奪還した。己の感情のみに左右される李承晩は、韓国国民の塗炭の苦しみを無視し10月1日韓国軍単独で38度線を突破した。10月2日国連軍もこれに続いた。

周恩来は極秘裏にモスクワに飛び10月9日スターリンと会談し、中国の参戦決定を伝え、かねて約束していた空軍支援を要請した。中国の参戦が米国を挑発し第3次世界大戦に発展することを恐れたスターリンは「無理に金日成政権を北朝鮮の地に維持させるよりは、金日成満州に亡命政府をつくるように勧告してはどうか」と提議し、空軍支援をヤンワリ断った。


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