残虐非道 李承晩----③

1950年10月2日毛沢東は重大な決断を下した。表向きは抗美援朝 つまり米国に対抗して朝鮮を支援するという名分である。実際は満州は確固たる中国領であることをスターリンに認めさせる参戦である。10月19日中国軍は秘密裡に鴨緑江を渡った。毛沢東が送り込んだ兵隊は、もと国民党軍や内モンゴル軍、満州国の兵隊などで、毛沢東にとって必要のない兵隊達であった。スターリンソ連航空部隊の参戦を許諾、操縦士に中国服を着せるよう指示した。

10月20日国連軍・韓国軍は平壌を占領しさらに北進した。北朝鮮各所で遭遇戦が始まった。中国軍は真夜中に冬山を踏破して国連軍・韓国軍の背後に陣取り襲いかかった。突然、大地から湧出る無数の中国兵に襲われ、国連軍・韓国軍の兵士はパニックに陥り、凄まじい恐怖にとりつかれ敗走に敗走を重ねた。12月5日中国・北朝鮮軍は平壌を奪還し、51年1月4日ソウルを再び占領した。

李承晩は17歳以上40歳未満の国民男子からなる国民防衛軍を組織していたが、中国・北朝鮮軍のソウル猛攻撃を受け、戦闘経験が全く無い防衛軍50万名を大邱や釜山へ集団移送することになった。しかし、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する食糧・野営装備・軍服の大量不足を生じ、9万名余の餓死者・凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となった。

この事件は国会で暴露され真相調査団が設置された。その結果、人員数の水増しによる国庫金23億ウォン、糧穀52,000石が着服・横領されたことが判明。さらに着服金の一部が李承晩の政治資金として使われていたことも明かされ、李始栄副大統領と黒幕と見られた申性模国防部長官が辞任した。51年4月国会は国民防衛軍の解散を決議した。7月中央高等軍法会議が開かれ国民防衛軍司令官金潤根、副司令官尹益憲らに死刑が宣告された。(国民防衛軍事件)

このような戦況を打開するためにマッカーサーは中国の海上封鎖、国民党軍(蒋介石)が支配する中国本土上陸、原爆の戦術的な使用も含めた満州の大補給基地攻撃などをトルーマン大統領に要請した。自らの命令を無視して北上を続け、中国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマンは51年4月11日マッカーサーの更迭を発令した。4月16日マッカーサーマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いだ。

引退直後の5月3日マッカーサーは米国議会上院軍事外交共同委員会で次の証言をした。「我々が過去100年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者たちが中国に於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった点にあります」しかし、73年8月10日デイヴィッド・ロックフェラーはNYタイムズ紙に投稿し、「毛沢東指揮下の中国における社会実験は人類史上で最も重要であり、最も成功したものの一つである」と表明した。

これは、毛沢東大躍進運動で4千万人以上を虐殺したことに賛辞を表明したもので、ロスチャイルド、ロックフェラー、軍産複合体等戦争屋の最終目的は地球人類の、特に有色人種の人口削減にある。朝鮮戦争の長期化そして、中国共産党が国内の大気・河川・土壌汚染を放置し、改善しようとしないのもそのためである。

さて、51年6月以降朝鮮戦争の戦線は膠着し、両軍は互いに強固な陣地を構築して激しい消耗戦を重ねた。同年6月23日、ソ連の国連代表ヤコブ・マリクがラジオ放送で休戦を提案し、同年7月10日から開城(ケソン)で休戦会談が始まった。しかし会談中も激しい戦闘は二年にわたり続き、北朝鮮・韓国両軍両市民の死傷者を徒に増やした。


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