消費税創設

中曽根の後継総裁は、竹下登、安部晋太郎、宮沢喜一のいずれかと見られていたが、87年5月14日二階堂進田中派総会で突然、総裁選に立候補すると表明。田中派の衆参両院議員は当時141人で、二階堂に付いたのはそのうち17人であった。一方、竹下は7月4日田中派から113人で独立、経世会をつくった。

後継争いは、話合い選出か、選挙で決着かの論議などで例の如くゴタゴタしたが妥協ができず、最後は中曽根総裁の指名によることを三候補が受け入れた。中曽根は10月20日竹下を指名すると同時に、宮沢を副総理に、安部を党幹事長にする一種の集団指導体制を求め、実現させた。自民党内には総主流派体制と呼ばれるものができ、やがて大勢力である竹下派による竹下派支配から二重権力構造へと繋がっていく。

竹下内閣は11月6日に成立した。竹下が目指し実行した最大の課題は大平、中曽根内閣の売上税導入の挫折にもかかわらず大型間接税の消費税を創設することであった。ニューリーダー3人は総裁選に先立つ10月10日「88年中に税制改革法案を成立させるため、誰が総裁になっても協力しあう」と申合せ党内の結束を優先させた。

さらに竹下内閣は売上3千万円以下の業者の免税、5億円以下の業者の簡易課税制度などで業界の抵抗を和らげ、サラリーマン層には所得税、住民税の軽減を先行させて反発を鎮める手を打った。

国会では野党の抵抗が強かったが、竹下や同派の重鎮金丸信らは国体族として野党とのパイプが太く、それを利用して公明、民社両党などの協力を取付け、単独審議を避けるなど国会運営技術の粋を尽くした。

その結果、88年11月16日税制改革関連六法案は社共両党が欠席した衆院本会議で、自民賛成、公民両党反対で可決、12月24日には参院本会議で同様の形で可決成立し、89年4月1日から取引の各段階ごとに3%の税率で課税されることになった。


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