ロスチャイルド家とは--②

1789年にフランス革命が起き、続いてナポレオン戦争になだれ込む。マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは5人の息子たちをフランクフルト(長男)、ウィーン(次男)、ロンドン(三男)、ナポリ(四男)、パリ(五男)という主要都市に適宜送り込み、そこにロスチャイルド家の拠点を築かせた。

戦争の続く激動の時代、彼等は各都市の王室や貴族を融資によって財政面で支える一方で、交換も重要な役割を果していた。ヨーロッパ大陸は小さな国々に分かれ政情も不安定で、多額の現金を輸送することはリスクが高かったのである。

例えばある商人がパリからナポリへ現金を運びたい時、彼はパリのロスチャイルド商会を訪ねて証券を発行してもらう。それを持ってナポリに向かい現地のロスチャイルド商会で証券を渡し現金を受取る。当然、現金の証券化、証券の現金化には手数料が生じ、さらに行き来する客によって最新の情報がもたらされた。

当時、ロスチャイルド家が築いた情報ネットワークは一国の軍隊よりも優れていた。交通の要衝には自前の馬車や飛脚を常に待機させ、英仏海峡は帆船で往来し、時には伝書バトまで使って最新の情報をやり取りしていたという。

ナポレオン戦争は一貫してフランスと英国が対立関係にあり、周辺国がどちらかにつくという状態が断続的に続いた。ロスチャイルド家は莫大な資金力でナポレオン側(フランス)と反ナポレオン側(英国)双方に戦争資金を提供し続けたのである。ロスチャイルド家の拠点が、フランクフルト一ヵ所だったらこのようなやり方は非難されたであろう。

1806年11月、ナポレオンは大陸封鎖令を出して英国との貿易を禁じた。大陸ではコーヒー、砂糖、煙草、綿製品などが高騰し、逆に英国では、植民地からの輸入に頼っていたこれらの商品の価格が、市場の喪失によって暴落した。ロンドンのネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはこれらの商品を安く買って大陸へ密輸し、それを父や兄弟たちが大陸内の通商ルートを使って売り捌いたのである。これによってロスチャイルド家は莫大な利益をあげ、大陸の人々から感謝された。

1815年英国・オランダ連合軍とプロイセン軍は、エルバ島を脱出し皇帝へ返り咲いたナポレオン率いる仏軍と戦争状態にあった。戦況を大きく左右するワーテルローの戦いが始まるやいなや、ロンドンのネイサンは自分が所有していた株や債券の投げ売りを始めた。これを見て「英国は敗れる」と騙された他の資本家たちは、取引所に大量の売り注文を殺到させ大幅な値崩れとなった。

事前にプロイセン軍の加勢が到着するという情報を仕入れ、ネイサンは連合軍の勝利を確信し株や債券を逆売りして、値崩れしたところを秘かに究極の安値で買い集め、英国の富のかなりの部分を占有することになった。彼は余勢を駆って同年、イングランド銀行支配下に置き、英国の通貨発行権を独占し事実上英国を乗っ取った。彼が1811年設立した投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズは今もロンドンの金融街で大きな影響力を発揮している。


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