張作霖爆殺事件----②

ロシア人歴史作家ドミトリー・プロホロフによれば、「張作霖は日本の支援で満州を支配していたが、ソ連張作霖1924年9月『中国東北鉄道条約』を結んでいた。しかし、鉄道使用代金の未納が1,400万ルーブルに及び、ソ連は26年1月鉄道使用禁止を通達した。同年9月張作霖は鉄道を実力で占拠し、鉄道管理官を逮捕した。

スターリン張作霖の暗殺を軍特務機関のフリストフォル・サルーニンに命じた。これにソ連参謀本部情報総局(GRU)のレオニード・ブルラコフが協力した。暗殺計画は26年9月末の奉天張作霖宮殿で挙行される音楽会が目標とされた。しかしこれは張作霖の特務機関が察知し、地雷は押収されブルラコフ等3人が逮捕された。

27年4月張作霖は北京のソ連総領事館強制捜査を行い、武器・暗号表・工作員リスト等を押収した。さらに支那共産党員を多数逮捕し、28年日本と交渉を始め満州に反共・反ソの独立した満州共和国を創設しようと画策した。スターリンソ連合同国家保安部の諜報員ナウム・エイティンゴン(40年8月のトロツキー暗殺を指揮)とサルーニン(前出)に日本軍の仕業に見せかけた暗殺指令を発した」と言うのである。

河本大作の狙いは、張作霖抹殺により中小の軍閥を四分五裂させて満州の治安を撹乱し、関東軍が出動して満州を武力占領することにあった。治安が乱れていることを証明するために張作霖が北京で暗殺されてはならず、彼が支配する本拠地・奉天で暗殺されなければならなかったのである。だから、ソ連諜報員による確度の高い客車内爆殺に賛同した河本は彼等の要請を受入れて、関東軍の犯行と思われるようにバレバレの証拠を残したのではないだろうか?

私は、陸海軍を統帥する天皇田中義一首相を辞めさせずに特別裁判を開かせ、売国奴河本だけでなく関東軍司令官・村岡長太郎中将や黒幕である参謀本部作戦部長・荒木貞夫中将を徹底的に追及して極刑に処すべきであったと思っている。しかし、明治憲法第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」とある。即ち天皇には政治的な責任は一切ないという意味で、裏返せば天皇は政治的な判断を一切しないということであり「立憲君主は君臨すれど統治せず」なのである。

昭和天皇独白録で天皇は「この事件あって以来、内閣の上奏するところのものは、仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与えることに決心した」と述べられている。1936年の二・二六事件で怒りを露わにした天皇は「老臣達を悉く倒すは朕が首を真綿で締めるに等しき行為ではないか」「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たらん」と発言された。この時の発言と大東亜戦争終結のご聖断とあわせて「立憲君主としての立場を超えた行為であった」と語られている。

張作霖事件で天皇だけが行使できる統帥権を行使しなかったことで、統帥権は軍部が立て籠もる最大の政治的な砦となった。陸軍首脳は勅命によらなければ行動できないという伝統的解釈を捻じ曲げ、勅命によって阻止されない限りどのような行動も許されるという恣意的解釈を持つに至ったのである。

顧みれば明治の初期にその実権を担ったのは武士階級の者達で、彼等は政治家と軍人を兼ねた存在であった。昭和の軍人達は戦争やクーデターを引起しても、それからどうするという明確な未来像はなかった。それは彼等が政治家ではなかったからである。そして現実の政治家達は軍事に口出しできず、一旦戦争が始まるとブレーキを失った暴走車の如く大破局まで突進むしかなかったのである。


レース結果共鳴チェック 

張作霖爆殺事件----①

1926年12月北京に陣取る軍閥は「北方安国軍」を組織して張作霖大元帥の地位に就いた。日本政府は27年5月〜28年4月邦人保護を口実に山東半島に出兵し蒋介石・国民党軍の北伐に武力干渉した。28年4月国民党軍は欧米の支援を得て態勢を立て直して再度北京に迫った。日本政府は張作霖が敗北することで、奉天に逃げ帰り満州がそのまま戦場になることを恐れ、芳沢謙吉公使に再三に亘り張作霖奉天引上げを勧告させた。張作霖は不満だったがその説得に応じた。

28年6月4日早朝、国民党軍との決戦を断念して奉天へ引上げる途上の張作霖の乗る特別列車が、満鉄線との立体交差地点を通過中、上方満鉄線の橋脚に仕掛けられた爆薬が爆発。列車は大破炎上し鉄橋も崩落した。張作霖は統帥府に担ぎ込まれた時には絶命していたという。そして警備、側近ら17名も死亡した。6月9日国民党軍は北京に入り南京政府による南北統一が成った。

満鉄の橋台にこびり付いていた火薬は国民党軍が持っていない日本軍用の黄色火薬であり、南方の志士と称する死体はアヘン中毒患者であることが判明。その所持する暗殺趣意書は日本式の漢文であった。決定的となった証拠は爆薬と爆破スイッチを結ぶ電線が、橋台から離れた関東軍の鉄道監視所の内に引き込まれていたことである。

陸軍中央は6月26日関東軍高級参謀・河本大作大佐を呼び寄せて取調べたが、河本は事件への関与を否定した。張作霖の抹殺を望んでいた陸軍中央は強く追及することなくその釈明を信じ、関東軍は事件と無関係であるとの報告を田中義一首相に行った。河本は取調べには真相を隠し通したが、河本が上京したその日に同志的上司荒木貞夫作戦部長、小磯国昭航空本部総務部長それに盟友の小畑敏四郎作戦課長には真相を告白していた。

関東軍参謀長・斎藤亘が参謀本部に提出した文書には「爆薬は破壊せし車両及び鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること、略推測に難しとせず」とある。また奉天領事・内田五郎が支那側との共同で調査した結果を6月21日付で爆薬の装置場所を「張作霖が爆発時に居た展望車後方部か食堂車前部附近の車内上部、又は高架橋脚の鉄桁と石崖との間の隙間に装置したと認められ、電気仕掛けにて爆発せしめたるもの」としている。

加藤康男氏は英国公文書館から次の史料を発見した。英国のM I 6諜報員だった駐日大使館付武官ヒル大佐の28年12月15日付英国外交部宛ての文書には「爆弾は張作霖の車両の上部又は中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェント(つまり河本大作等)を雇ったと思われる」と書かれているのである。

田中首相は河本等を厳罰処分する方針を天皇に奏上した。しかし事件をウヤムヤにしたい陸軍等の要求に負け、河本は軍法会議にかけられることもなく、29年4月予備役に編入された。同年5月6日田中は犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨を奏上したため天皇が激怒。6月27日田中は天皇に最終報告したが「責任をハッキリさせよ、辞めたらどうか」と言われ7月2日内閣は総辞職した。しかし軍部には全くお咎めなしだったため、これが軍部独走のキッカケとなるのである。

東京裁判で検察側証人として出廷した元陸軍少将・田中隆吉は「張作霖事件は河本大作大佐の計画で実行された」と証言した。パール判事は「田中証言は全て伝聞証拠に過ぎない」と断定している。この当時河本は支那大陸国共内戦で閻錫山の国民党軍に協力して、中国共産軍と戦っていたのだから河本本人に証言させるべきであった。しかし東京裁判戦勝国のリンチであり史実はどうでもよいのだ。東京裁判以降、世界最大の侵略国家米国によって日本は犯罪国家・侵略国家に貶められてしまった。


レース結果共鳴チェック

21ヵ条要求の顛末----③

1914年に世界大戦が勃発すると米国の工業は軍需景気に沸いた。莫大な物資の輸出によって、19世紀末の鉄道ブーム時代から累積した対外債務を一掃し世界最大の債権国となった。大戦終結後、帰還兵による住宅ブームや大量消費、特に自動車やラジオ等の新技術による製品の需要の高まりを背景に米国経済は躍進し、世界経済の中心となり国際金融もロンドンに並んだ。

米国大統領ウイルソンが提唱した民族自決は、ロシア革命及び敗戦したハプスブルク帝国解体によって空白となった東欧地域が独立の主体となり、オーストリアハンガリーチェコスロヴァキアフィンランドエストニア・ラトヴィア・リトアニアポーランドユーゴスラヴィアが独立国となった。ウイルソンは列強諸国の植民地にも自決権を与えるよう主張したが、戦勝国英・仏が反対した。尚、オスマン帝国の解体はイラクパレスチナ・トランスヨルダンは英の、シリア・レバノンは仏の委任統治となった。

1919年7月と20年10月の2度に亘り、ソビエト支那を共産化するためにカラハン宣言を出した。それは日露戦争の秘密協定を暴露しかつ無効とする内容であった。ソ連は日本を満州から追出すため、女真族の地満州支那の領土だと認め支那を味方に引き入れたのである。実際支那人ソ連に一気に同調した。その結果、19年から10年間に共産パルチザンのゲリラ事件は108件も発生した。日本の援助が途絶えた孫文ソ連の援助を受入れ24年1月 共産党員の資格のまま国民党員に吸収するという国共合作を行った。    

1921年11月12日ウォレン・ガマリエル・ハーディング米国大統領は、日本を列強から排斥・孤立化させるためのワシントン海軍軍縮会議を開催した。高橋是清内閣から海相加藤友三郎全権への暗号電を傍受・解読されたことで会議は米国有利に展開した。米国は「日英同盟の仮想敵国たるロシアが滅亡した現在、この同盟は米国を仮想敵国とする他は存在意義が無い」と強い不信感を表明し、同年12月13日 日本にとって全く役に立たない日・米・英・仏四ヵ国条約が結ばれ日英同盟は廃棄された。結局、英国が凋落した会議ともなった。

1922年2月6日支那対8ヵ国による支那の主権・独立・領土・行政の保全尊重を柱とする9ヵ国条約が成立した。これを受けた日本と支那の二国間交渉により、ドイツから奪った山東利権の大半が支那に返還された。また支那は日本の満蒙権益についても強硬に反対した。世界に民族自決の嵐が吹きまくったこの時、日本政府はこのチャンスを生かして、大陸進出だけでなく台湾も朝鮮半島南樺太も、すべて譲渡あるいは放棄して専守防衛に徹するべきであった。

あのナポレオンもスペインのゲリラ戦法には勝てなかったことを思い出して貰いたかった。日本政府は大きな犠牲を払った20年3月の尼港事件から何も学ばなかったのである。22年6月首相となった加藤はこの軍縮条約に従って軍艦14隻の廃棄や海軍軍人のリストラをすすめ、陸相の山梨半造は陸軍の軍縮を断行した。加藤は病身で議会への出席もままならず、23年8月24日現職のまま大腸癌で死去した。そしてワシントン会議に呼ばれなかったソ連軍縮埒外に置かれたのである。

張作霖は満鉄併行線敷設禁止協定を無視して、27年7月満鉄の西方に打通線を、同年9月満鉄の東方に奉海線を完成させ格安運賃で運営し日本の満鉄経営を根底から脅かした。この鉄道敷設資金を提供したのが米国である。張作霖の死後、31年には米国は対日戦争に備えて、戦車100台・飛行機数十機・弾丸100万発の生産能力を持つ兵器工場建設の資金援助を行い、満州における影響力を増大させていった。

レース結果共鳴チェック

21ヵ条要求の顛末----②

世界大戦中の1917年11月7日 FRBを設立して米国を支配したロスチャイルド等金融資本家によるロシア革命が成った。これで米ソ蜜月がスタートした。しかしそれを隠蔽するために彼等は米ソ冷戦構造を構築して世界を欺いた。戦争ビジネスと世界人口削減のためである。翌8日レーニンは無併合・無賠償・民族自決の和平を全交戦国に訴える「平和に関する布告」を宣言した。ドイツはこれに応じて交渉に入るが連合国は黙殺した。そこでレーニンは旧政権の秘密外交文書を公表し、各列強の帝国主義的な本性を暴露した。

これに呼応して1918年1月8日米国大統領ウイルソンは大戦終結のための「平和原則十四ヵ条」を発表した。特に秘密外交の廃止や民族自決が強調された。両首脳は民族自決を謳っているが、ロスチャイルド等はこの時既に、列強の植民地支配(プランテーション)を終わらせ、金融資本による世界制覇、国境を越えたグローバルな株主資本主義、つまり有色人種を低賃金で酷使する利益の最大化を目論んでいたのである。

1918年1月英国はウラジオストクにある軍需品がドイツに渡るのを防止するため日本軍の派兵を提案した。これを米国が反対したため日本はこの提案を拒否。同年3月3日ドイツとソ連の前身であるボリシェヴィキ政府は講和を結んだ。この条約によりロシアは世界大戦から離脱し、ドイツは全兵力を西部戦線に投入することになった。同年5月中旬ロシア軍と共に闘っていたチェコ軍は西シベリアとウラルのボリシェヴィキ政権を倒した。これを援護すべく英仏は再び日本にシベリア出兵を要請。米国の意向を知悉する日本はこれも拒否した。

そこで英仏はウイルソンを説いて日米共同の出兵を促した。米国もこの出兵要請を受入れ1918年8月上旬、日本12,000人・米7,950人・英1,500人・加4,192人の軍をウラジオストクに派遣した。支那も出兵を申出て軍を送りイタリアもそれに続いた。日本軍は増員して72,000人となり、沿海州から西はバイカル湖を越えイルクーツクやチタまで、延べ22万人の派遣となった。18年11月3日ドイツ帝国は崩壊し休戦を受諾。11月11日ドイツの臨時政府代表がパリのコンピエーニュの森で調印し、世界大戦は終了した。

米軍は日本軍に非協力的で20年4月までに撤兵した。日本軍は単独駐留を続け22年8月26日から撤兵を開始したが、ロシアのみならず連合国からも領土的野心を疑われた。20年3月〜5月にかけてロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名からなるパルチザン(共産ゲリラ)が日本陸軍守備隊及び日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6,000人を虐殺し町を焼払った。(尼港事件) それが撤兵の遅延となった。

日本がシベリア出兵した4年3ヶ月間の最大の貢献は、シベリアに餓死者を出さなかったことである。19年〜25年にウクライナなどソ連邦の西側では1,000万人以上が餓死している。日本軍はシベリアの食糧に関して、ボリシェヴィキと協調して円滑に流通させたのである。また反革命派のロシア人達の脱出にも貢献している。18年の日本への亡命者数は7,251人に達する。スタルヒン大鵬の父親、チョコレートで有名なモロゾフ等はそのまま日本に永住している。

また、ロシアはポーランド政治犯をシベリアに流刑したため、ロシア革命の混乱と18年11月のポーランド独立によってポーランド孤児がシベリアに取残された。その惨状を知った日本軍は800名のポーランド孤児を救出し祖国に帰還させた。孤児を救った51名の日本軍将校に対し、ポーランド政府は25年ヴィルトゥテイ・ミリターリ勲章を授与してその功績に報いた。

1919年1月18日に開催されたヴェルサイユ宮殿の講和会議で日本側は日華条約の正当性を主張したが支那側は「中華民国戦勝国である」と強硬に拒否。米国を除く列強の賛同でヴェルサイユ条約山東権益の日本への譲渡が明記されると、北京の学生数千人が同年5月4日ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免を求めてデモ行進した。これに呼応した各地の学生も全国的な反日・反帝運動を繰広げた。(五・四運動)その広がりの過程で日貨排斥運動へと性質を変え、日本人となった朝鮮人を含む邦人への襲撃が続発し、死傷者が増大した。この度重なる米支の挑発が満州事変勃発の一っの要因となる。


レース結果共鳴チェック

21ヵ条要求の顛末----①

ドイツ陸軍がベルギーに侵攻したことを確認した英国は、1914年8月4日ドイツに宣戦布告した。 (第一次世界大戦) 8月7日英国は膠州湾を拠点とするドイツ艦隊を撃破して欲しいと日本に要請。ところが米国が反対したためこの要請は取消された。その後日英の折衝を経て、英国は日本の参戦地域を限定しないことを認め、日本政府は8月15日ドイツに最後通牒を行った。ドイツはこれに回答せず日本は同月23日に宣戦布告した。

日本海軍は9月までに、太平洋のドイツ植民地だった南洋諸島のうち赤道以北のマリアナ諸島カロリン諸島マーシャル諸島を占領した。11月7日日本陸軍と英国軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地であった中華民国山東省の青島と膠州湾の要塞を攻略した。さらに英・仏・露から日本陸軍をヨーロッパ戦線に派遣するよう再三要請されたが、加藤高明外相は「国益に直接関与しない外征に参加させることはできない」と声明を出した。しかし日本はインド洋に第一特務艦隊を派遣し、英・仏の輸送船団の護衛を受け持った。

1915年1月日本は対華14ヵ条の要求と7ヵ条の希望を出した。日露戦争後日本と清国が決めた条約を国が変った中華民国に継承して貰うためである。その内にドイツから奪った権益が含まれていたため紛糾した。5月9日袁世凱は修正を加えた16ヵ条(日華条約)に調印した。米国の宣教師等に煽られた支那国民はこの日を国恥記念日とした。

日教組は「日本政府は世界大戦のドサクサに紛れて支那に21もの不当な要求をして渋々認めさせた」と教育しているが、実は米国が支那と謀って支那の国内世論を沸騰させ、世界に日本の要求を誇大に吹聴して反日感情を煽るためのプロパガンダであった。その証拠がある。駐支米国公使ポール・ラインシュの本国への報告書に「支那側は譲歩すると約束したよりも要求が遥かに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」と記している。

また加藤外相自ら「条約の最後通牒は、譲歩する際に支那国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである」と認めている。米国外交官ラルフ・タウンゼントも「日本側は高圧的な態度に出るふりをした。それで支那人は不承不承署名するという風にしたのである。裏でかなりのお金が動いたであろう。支那の交渉ごとは金次第だからである」と述べている。

袁世凱は15年6月22日 日本人に土地を貸した者は、裁判なしに死刑に処するという懲弁国賊条例を公布した。袁は日華条約を履行する気など全く無かったのである。17年1月〜3月 英・仏・露は山東と赤道以北の南洋諸島のドイツ権益を日本が継承することを秘密裡に承認した。同年2月日本海軍は計18隻の駆逐艦を地中海に派遣した。地中海における戦闘で日本海将兵78名が戦死した。

1917年4月6日米国はドイツの無制限潜水艦作戦を理由に参戦した。本当の理由は米国が持つ対英・対仏債権が焦付いては困るからである。また米国は支那の段祺瑞政権に参戦を強く要求し、同年8月14日段は独・墺に宣戦布告した。支那は事実上戦闘には不参加であったが、戦後は戦勝国として不平等条約の改正等の果実を得た。だから習近平は闘ってもいない抗日戦勝70周年記念に血道を挙げるのである。国連の常任理事国だったら国際ルールを守り給え!

日本は陸海軍ともに国際法を遵守し、青島で捕えたドイツ軍捕虜約4,700名を丁重に遇した。545名が移送された広島の似島検疫所では、菓子職人のカール・ユーハイムバウムクーヘンを焼きあげ、産業奨励館(現在の原爆ドーム)で実演販売を行った。徳島の板東収容所では、ドイツ料理やビールなど数多くのドイツ文化が伝えられ、ベートーヴェンの「交響曲第9」も演奏された。


レース結果共鳴チェック

戦争に勝利したら四面楚歌

日露戦争(1904年〜1905年)後、日本と列強との関係に大きな変化が生じた。その第一は講和条約締結の斡旋の労をとった見返りとして米国は鉄道王ハリマンを派遣して、南満州鉄道の共同経営を提案させた。桂・ハリマン覚書が取交されたがポーツマスから帰った小村寿太郎は「9万人の戦死者と19億円の戦費で勝ち取った満鉄の利権を米国と分け合うとは一体何を考えているのだ!」と激怒し、この覚書を破棄させた。歴史の転換点に情緒的思考を持ちだすのは日本人最大の欠点である。ロシア南下阻止が戦争目的だった。目的が達成された以上、満州利権などは300億円位で売却すべきだったのである。

ハリマンは「日本は10年後に後悔することになるだろう」と言い放ったという。1906年日本を仮想敵国とする米国海軍の「オレンジ計画」が策定された。1908年には戦艦6隻の世界一周米国親善大艦隊の横浜寄港がある。明らかな砲艦外交の発動である。余談だが、日露戦争の戦時国債を引受けたジェイコブ・シフのクーン・ローブ商会は1977年リーマン・ブラザーズに吸収合併されたことを銘記しておきたい。

そして第二はロシア帝国満州北部に撤退し、日露協商体制が整ったことである。第三は清帝国の直隷総督、北洋大臣・袁世凱が日本政府の南満州利権の回収を強硬に要求し始めたことである。その結果、満州への進出を欲する米国が支那に接近し、日露 対 米支という構図が出現した。しかしロスチャイルド等が仕組んだ1917年のロシア革命ロマノフ王朝が滅亡した後は、日本は四面楚歌となる。米国政府が親ソを隠蔽し反共を装い続けたのである。

1911年10月に辛亥革命が起り、12年1月清王朝は滅亡し中華民国が成立する。支那民族独立運動を続けていた孫文が臨時大統領に選ばれたが、謀略家・袁世凱に権力を奪取されてしまう。15年袁世凱は自ら帝位に就いたが反帝政運動が起って失脚、16年6月憤死。支那全土は軍閥割拠の混沌状態に陥り、内戦は1928年12月に国民党の蒋介石による北伐完成まで続く。

山本権兵衛は陸主海従の国防方針を海主陸従に転換すべく画策した。その一策として1899年佐藤鉄太郎大尉を一年半英国へ、次いで米国に8ヵ月留学させた。1902年栄進した佐藤少佐は「帝国国防論」で「島国である日本は海主陸従でなければならない。英国は大陸征服に向かわず富を海外に求め繁栄している。侵略征服する国は必ず滅びることは歴史が証明するところである」と論じた。1909年佐藤大佐はさらに「帝国国防史論」を出したが、陸軍の長老・山縣有朋はこれに激怒した。

山本権兵衛時代の海軍は一貫して大陸進出に反対した。1913年には東洋経済新報が満州放棄論を唱え、小日本主義(軍備拡張を避け国内開発を優先する)を打出した。同年2月20日に発足した山本内閣は陸軍の増師を拒否し海軍増強案を示したが、14年1月ドイツでの恐喝事件裁判の被告から日本海軍への贈賄が暴露され(シーメンス事件)同年4月山本は退陣し予備役編入となり、大陸進出論は再び勢いを取り戻した。

しかし15年から海軍大臣、22年〜23年まで首相兼海相となった加藤友三郎大将も大陸進出論には反対を続けた。加藤病死を受け再び山本権兵衛が組閣中の23年9月1日関東大震災に襲われた。山本は普通選挙の実現、財政緊縮、陸軍軍縮、日ソ国交回復等を掲げたが、帝都復興事業が焦眉の急となった。前年の2月には山縣有朋が「黄禍論」に苦悶しながら死去している。このチャンスに山本は大震災からの復興を理由に満州撤退を公表・実行すべきであった。結局、山本も小村寿太郎同様、大衆に阿ねてしまった。

以下は2004年6月に書かれた「竹村健一の視点」の要旨である。沖縄返還交渉の過程で、尖閣列島周辺の海底に油田があるという話が持ちあがり、米国の石油メジャーは石油資源共同開発を打診、佐藤栄作首相は自国日本のことだからと言ってこれを退けた。その後、石油メジャーは台湾政府を説得して「尖閣諸島周辺海域の採掘権」を取得。1971年6月台湾政府は尖閣諸島の領有を主張し、同年12月中国政府も尖閣諸島の領有を主張し始める。ロックフェラーの仕業である。だからこそ日本人はFRB打倒に立ち上がらなければならない。


レース結果共鳴チェック

旅順虐殺は米人記者の捏造

1894年12月11日ジェームス・クリールマンは、発行部数を増やすために敢えて扇情的な記事を売物にするイエロー・ペーパー「ニューヨーク・ワールド」に次の記事を寄稿した。「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷に殆ど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住民達が自らの家で殺され、その身体は言い表す言葉がないくらい切り刻まれていた」

94年11月22日には日米間で不平等条約改正となる日米通商公海条約が結ばれており、米議会上院はそんな野蛮な国との条約は破棄すべきとの声が上がり、駐日米国公使エドウィン・ダンに事件の調査を命じた。ダン公使は旅順攻防戦を見ていた観戦武官に報告を求め現地にいた人物からも証言を取り、それらを総合してクリールマンが伝えるような民間人虐殺は無かったと結論付けた。1895年2月日米通商公海条約は、無事批准された。

また駐日ベルギー公使アルベール・ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗出し、結局米国記者による捏造であったことを突き止め、本国ベルギー政府に次のような報告書を提出している。「私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが彼は私にこう断言した。殺された者は軍服を脱いだ兵士達であり、婦女子が殺されたというのは真実ではないと。旅順港占領の数日前に殆どの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工達だけであった。日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸を見ながら何とか敵を捕虜にするだけにとどめた」

旅順攻略後、現地行政庁の行政官になった鄭永昌は「支那兵が旅順に駐屯するや、ほしいままに民家に乱入し家具を破壊し財産を略奪せし者少なからず、故に日本軍の進撃せし時は旅順市街すでに空虚なり」と報告している。旅順の支那兵12,000の内9,000が新募兵であったため、士気が低下し軍律も乱れていた。退却の際には軍服を脱ぎ奪った衣服を着て民間人を装うことは、成歓の戦いや平壌の戦いでも繰返えされていた。宮崎正弘氏によれば支那の泥棒は「泥棒!」と叫びながら逃げるという。

フランスの国際法学者ポール・フォーシーユは「この戦役に於いて、日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず、自ら之を尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の傷病者を見ては未だかって救護を拒まざりき。 (略) 又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。日本はいずれの他の国民も未だかって為さざる所を為せり。

其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無対価にて之を給養するに至れり。兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。見るべし日本軍隊の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを」と日本軍を絶賛している。

旅順虐殺捏造記事で名を馳せたクリールマンは1895〜98年の第二次キューバ独立戦争に際し、スペイン軍の残虐性を誇張して書きたて米国民のスペインに対する憎悪を煽った。98年2月15日米国政府は、米国海軍戦艦メイン号爆破を自作自演、266名の犠牲者を出して米西戦争を開始した。勿論、この戦争を仕組んだのも米国政府を操るロスチャイルドやロックフェラー等、戦争屋である。

1894年11月便衣兵の遺体は集団で焼かれ、骨灰は白玉山東麓に埋葬され「清国将士陣亡之墓」と墨書した木碑が建てられた。1896年堤調官・顧元勲は埋葬者の墓碑、廟を建造し、日本兵による大虐殺として碑に「万忠墓」と刻んだ。その後、数回の修復を経て日清戦争100周年を迎えた1994年 国家主席江沢民は万忠墓を修築し反日を目的とする万忠墓記念館を建立した。


レース結果共鳴チェック